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    長編小説
      「Changing My Life」
 
 

 遠い世界、異なる時間の、知られざる物語――。

  第一章 凶星

   1

 星がひとつ、輝きを増した。

 そこから一つの意味を読み取ることができる者は、この世界に住む者すべての中でさえ、ほんの一握りに過ぎなかった。ましてや、そのほんの一瞬の輝きを、実際に目にすることが出来た者の中で、となれば、それはさらに限られた人数になるだろう。
 彼女は、その少数者のうちに数えられることになった。

 風の心地よい夜だった。自宅の屋根の上で、女は空を見上げていた。蜂蜜を流したような黄金色の髪が夜風になびき、青玉の瞳に満天の星空が映る。
 彼女は星空を見るのが好きだった。
 晴れた夜空を見上げ、星辰の運行やその配置、それに付託された人間の神話や伝説に思いを馳せる時間は、彼女の生活にとって、安らぎと癒しとをもたらす、生活習慣上の、ある種の儀式であった。
 だから、ことの最初からその「星のきざし」が意味するものを読み取ろうとしていたわけではなかった。彼女が星をもって世の行く末を占うすべに長けていたのはまったくの偶然である。
 占星術――。
 それは、正しい解釈のもとでは実際に有用な技術であった。何事か変事があるとき、かならず星辰にはその前兆があらわれるのだ。
 少なくとも、この世界――
 魔法の力を操る者がいる世界、
 神々の声を聞く者がいる世界、
 人外の魔物や怪物、幻獣たちが、山奥や森の中、廃墟、空や海にまで徘徊する世界、
 妖精たちが人目を避けて隠れ住む世界、
 そして、鋼の剣を揮う者がいる世界。
 この、「フォーセリア」と呼ばれる世界では。
 ……だから彼女は、その星の輝きの変化をみつけ、自らの知識に照らしてその意味を知ったとき、あまりのことに驚き震えた。 その星は、凶星――世界の破滅を意味する予兆であったのだ。

   2

 アレクラスト――「世界の中心」を意味する名をもつ大陸。

 この広大な大陸が、フォーセリアと呼ばれる世界においてつねに、少なくとも人間の営みの中心であったことは、疑いようもない。
 太古、神々の戦いも、この大陸をおもな舞台として展開された。至高神ファリスが率いる光の神々と、暗黒神ファラリスが率いる邪神・魔神たちが、海を裂き天を墜とし、竜を駆って互いの物質的な肉体を蝕みあった結果、フォーセリアに一つだけだった大陸はいくつもに引きちぎられ、中心に残った大地が「アレクラスト」の名で呼ばれるようになったという。
 恐るべき魔術師たちが君臨した「魔法王国」による、暗黒の統一時代もまた、この大陸から始まった。カストゥールという名のこの王国は、世界の根源たる力・マナを制御する術を手に入れた者たち、すなわち魔術師たちが、持てる魔法と技術の全てを動員して築き上げた王国だった。都市を空に浮かべ、人々は自在に魔法を操り、竜や巨大な魔獣でさえも使役した。その一方で、魔法を使えない者たちは「蛮族」と蔑まれ、魔術師たちから家畜のように扱われていた時代でもあった。
 そして――
 そして今は、「剣の時代」だ。
 魔法文明が崩壊した後、かつて虐げられてきた「蛮族」たちが、魔法に代わり、剣の力によって割拠し、覇権を争い、国を支配するようになっていた。
 幸福も、富も、名声も、誇りも、
 絶望も、困窮も、堕落も、妥協も、
 そして、生も死も。
 この大地において、人の生のすべてはいまや、その手に握られた、ただ一片の鉄塊が打ち散らす火花の中にあった。

 ゆえに人は時に、この大陸を「剣の世界」――ソード・ワールドと呼ぶ。

   3

 アレクラストには「冒険者」と呼ばれる者たちがいる。
 その称号は特定の職能を示すものでも、社会的階層を示すものですらもない。
 にもかかわらず、この大陸にいったい何人の「冒険者」がいるのかわからないほど、その数は多い。何百、あるいは何千人――。ひとつの王国の人口が百万人規模であることを考えれば、絶対数はさしたるものではないかもしれない。しかし彼らはたしかに、アレクラストに住む人々の暮らしの中で確固たる地位を認められた存在だった。
「冒険者」を名乗るもの、あるいは期せずしてそう呼ばれるようになった者のうち、ほとんどは、まっとうな生業ももたず、また、就こうという意志すらなかった。一箇所に定住することは珍しく、たいていは街道を縦横に旅して暮らしている。
 彼らは少人数の仲間同士で行動し、周囲の人々から依頼された厄介ごとを解決して、その見かえりを得ることで生計をたてている。いうなれば「何でも屋」の類である。
 が、ただの何でも屋と違うのは、どんな冒険者にせよ、ある程度の危険はかえりみない、という点だ。
 危険を冒す、と書いて、「冒険」。
 彼らとて好んで危地に身を投じようとしているわけでもないのだろうが、冒険者が関与し、また解決される類の厄介ごとには、常識的には考えられないほどの危険がつきまとうのが常であった。
 たとえば彼らは、市井の者には「怪物」としか認識されないような、人外の異形の者たちに、臆せず立ち向かう。あるいは、うち捨てられた古代の遺跡の奥底に、仕掛けられた悪辣な罠をかいくぐって入り込む。名にし負う無法者たちを官憲に代わって懲らしめたりもする。
 彼らの内ある者は、我こそは剣技において比類なき戦士であると公言し、その技に見合う敵手を求めるために冒険をしていると思い込んでいる。
 またある者は、自らを古代の知識の復元者と称してはばかりなく、失われた秘術、古代の魔法を継承するためにその探求の旅をしている、と自負している。
 さらに傲慢きわまりない者は、自分が誰よりも有能な盗賊であることを信じて疑わず、犯罪に利用されうる多くの手先の技を研鑚し、また、そこに眠る価値ある宝物を我がものとするために古代の遺跡を荒らすのだと主張する。
 他にも、いわく、天上の神々の奇跡を伝道するため、いわく、自らの美声をあまねく世の人々に聴かせるため……と、彼らの言をいちいちとりあげれば、その目的や行動の主旨は、てんでばらばらだ。
 ただ一つの共通点。それは「冒険をしたい」という思いのみ。
 冒険の中でこそ、ばらばらな個性をもつ彼らは一丸となる。また、だからこそ、彼らは冒険の日々に身を置くのである。
 莫大な報酬も、悪名や名声も、結局のところその付随物でしかない。
 冒険者――。
 その呼称は、特定の職能を示すものでも、社会的階層を示すものですらもない。
 その生き様を示す言葉にほかならないのである。

   4

 オラン王国に住む司祭バーンが、冒険者であった頃の物語は、よく知られている。
 彼はおそらくオラン王国、東方、いや大陸全土を見渡しても、十指に入るほどの実力をもつ冒険者の集団(パーティ)の一員として、アレクラスト東方世界を中心に、新王国暦五一五年前後に活躍した。
 高名な絵師によって描かれた絵姿が、今もオランのとある宿屋の廊下に飾られている。
 画面中央の右寄りに立つのがリーダー、「左利きの聖戦士」バーンである。
 名高き剣聖ジルフィードに鍛えられた鉄壁の防御の剣と、世に正義をしろしめすファリス神の奇跡をつかう神官戦士。彼は白い鎧をつけ、右腰に長剣を佩いた姿で描かれ、堂々たる体躯と穏やかな表情は、見るものを安心させる不思議な魅力がある。
 そして「可憐なる導師」こと、魔術師シリィ・ラドクリフ。
 中つ原の王国ラムリアースの生んだ、美しき金髪の魔女。バーンに寄り添うように描かれる彼女は、流れるような金色の髪と、青く澄んだ瞳を持つ色白の美女として描かれている。
 神速の剣を揮う騎士、「旋風」レッドリード・ローウェイ。
 絵の中央に配された彼の姿は、磨き抜かれた銀の鎧をまとい、抜き身の巨大な剣を斜に携えている。不敵な笑みを浮かべた美男子に描かれていて、リーダーのバーンよりも目立っているようだ。
 大盗賊ルードこと、リグ・ライアン。
 レッドの後ろに立つ長身の、褐色の肌を持つ男がそうだ。風采の上がらない中年男にみえるが、頬に鋭く刻まれた傷跡が、彼の尋常ならざる人生を証明している。この絵ではポーズをとり、歯を見せて引きつった笑顔を作っているが、彼を知る者の証言によれば、本人はどちらかというと、不機嫌そうな渋面をつくっていることの方が多かったようだ。
 ヴァンカーの森の「守護者」、精霊使いセルリア。
 彼女の姿は、画面右手のすこし外れたところで、椅子に腰をおろした恰好で描かれている。頬肘をはって、軽く曲げた膝に乗せ、そっぽを向いているが、その物憂げな横顔は、額縁の外側に何か見えないものを見ているような表情とも読める。
 チャ・ザ神の加護を受けし「幸福のにない手」、神官戦士ライミー・ガルト。
 彼の姿は画面左手の手前に広く面積をとって描かれている。筋肉の盛り上がった四肢と、獅子のような強面の表情が強調されていて、その胸元にある、鎖でぶら下げられたちいさな銀のスプーンだけが、彼がチャ・ザの神官戦士であることをささやかに説明している。
 そして「影まとう者」、魔法剣士ゲイル・ガルディアード。
 中央左よりの、レッドを挟んでバーンの反対側の位置、遠慮がちに一歩引いた奥のあたりに描かれている、引き締まった痩身の持ち主が彼である。裾の切れた黒いマントの下に、やはり黒い革のコートをつけ、異名のとおり影をまとっているように見える。禍々しい装飾を施された魔剣を杖のように逆手に持って、何もかも見通すような視線をこちらに向けている。
 彼ら七人は縦横に大陸を駆け、様々な謎を解き、多くの人を救い、この世界が秘める可能性の深淵に触れた。
 彼らの事績としてもっとも知られているのは、カゾフの街に来襲した魔竜「死の翼」を撃退したことであろう。もって彼らは「竜殺し」の称号を得たのである。
 翼を持つ巨大なトカゲのような姿をした竜――ドラゴンたちは、神々の時代から生息する、フォーセリア世界で最も強大な魔獣であって、獣というよりむしろ神に近い存在であるとも言われる。バーンたちが倒したドラゴンはその中でも比較的若い、下位種に属するものと見られたが、それでも並みの――「冒険者」以外の――人間には、とても太刀打ちできる存在ではなかった。
「竜殺し」の称号は、近年では西方で王となった冒険者がそう呼ばれるようになって以来、久しく与えられていないものだったが、カゾフの太守は惜しげもなくバーンたちにその名誉ある称号を許した。
 かく見られるとおり、バーンたちはあまたの冒険者の中において、かくれもない「成功者」としてよく知られていた。
 だが、五年前。彼らは突如として解散し、冒険者としての活動を休止してしまったのである。
 冒険の日々に飽きたのか、後進に道を譲るということなのか。それとも何か、彼らの信頼関係を崩すような出来事がおこったのか。解散の原因については、様々な憶測が飛んだが、当人たち以外には、実際の事情はわからないままであった。
 ともかく、一行のリーダーだったバーンは現在、彼の配偶者となった導師シリィ・ラドクリフとともに、オランの都の郊外に建てた邸宅で、さながら隠者のように暮らし、世のおもてに顔を出そうとはしなくなっていた。他のメンバーも散り散りになっている。

   5

 あれから五年も経つのね、とシリィは感慨深げに息をついた。
 オランの都を見下ろす、郊外の丘の上、まだ野生の木々が残る静かな土地に建つ、こじんまりとした邸宅は、彼女と、彼女の夫が冒険者時代に稼いだ資産で買ったものだ。
 二階建ての、ごく一般的なつくりの家屋で、町場の長屋よりはすこし大きいが、「お屋敷」と呼べるほどでもない。応接間が下階の間取りの大部分を占めていて、知り合いの家具職人につくってもらった質のいい調度類が置かれている。その北東の隅には暖炉があって、朝から冷え込んだ今日は、くべられた薪が赤々と燃えていた。
 あの「最後の冒険」から五年が経った。
 シリィは、応接間の南東の隅に置いてある板金鎧一式にはたきをかけながら、いまやすっかり埃をかぶって、置物のようになってしまったこの鎧が、暗い地下迷宮の奥で、深い森の中で、広大な平原で、灼熱の砂漠で、あるいは複雑に入り組んだ町の路地裏で、たしかに呼吸していた頃のことに、ふと想いを馳せた。
 あの「最後の冒険」がなければ、今の平穏な生活はなかったに違いない。
 きっとシリィも、彼女の夫も、いまだに迷宮の奥で怪物を敵に回し、古代の賢者が仕掛けた陰湿な謎を解明しようと躍起になり、人の世の厄介ごとを引き受けながら、町から町への旅暮らしを続けていたのに違いないのだ。
 明日なにが起こるか予想のつかない、冒険の日々――。
 シリィがまだ子どもだった頃は、そういう血沸き肉踊る「冒険者」の生き方に、強く憧れたものだった。
 しかしシリィが過去に想いを馳せたのは一瞬のことで、鎧の埃をすっかり払い終えると、はたきを置いて、今度は壁にかかったモップに手をのばした。
 愛する人と、小さな家で暮らす、ささやかな幸福。穏やかに過ぎていく一日一日を大切に生きてゆく、平凡だけれど充実したな生き方。
 今の彼女は、それが続くことを願っている。あの過酷な冒険の日々は、いまでは夢の中での出来事のように思えた。
 広間の反対側から、階段をおりてくる足音が聞こえた。
「おはよう、シリィ」
 足音の主は寝巻のまま、暖炉の横にある窓の前で、その巨躯に似合わぬちいさな欠伸をひとつかいてからシリィの方を向き、そう挨拶した。
「『おはよう』って、バーン、あなたね」
 シリィはモップの柄を左右の手の間でもてあそびながら、呆れたような声で言った。
「今、お日様がどのあたりにいるか、教えてあげましょうか?」
 バーンは眠そうに目をこすりながら、カーテンを少しずらし、窓の外をうかがった。こちらは北側なのでよくわからないが、影の様子からすると、日はすでに中天にかかっているようだった。
 バーンはシリィに向き直って、照れくさげに頭を掻いた。
「……朝ごはんは?」
「もう食べちゃったわ。――さきに顔洗ってきなさいよ。ラーデン助祭が今朝、タマゴを持ってきてくれたの。オムレツつくるから、終わったらこっちで待ってて」
 モップをふたたび壁に立てかけて、シリィは食堂に通じるドアを指差した。
 彼女の夫――バーンは、寝ぼけ気味の顔のまま「ああ」と生返事をして、おもてにある井戸に向かった。
「さてと」
 土間に下りたシリィは、水場の脇の手水鉢で手を洗って、エプロンを料理用のものに換え、袖をまくってキッチンに立った。二口あるかまどの片方に愛用のフライパンを置く。もう片方には大きな鋳鉄の湯釜がのっていて、まだ冷め切っていないぬるま湯が満ちている。それを確認すると、シリィは一歩退いて姿勢を正した。
『万物の根源たる、大いなるマナよ――』
 彼女の口から、先ほどまで会話していた言葉とは明らかに体系が違う言語が発せられた。 その言葉は、世界の根源たる物質――マナの領域に干渉し、それを制御するための「力ある言葉」であった。古代の魔法王国時代にその体系が整えられたことから、「古代語」もしくは「上位古代語」とも呼ばれる。
 つまるところ、それは「魔法の呪文」であった。
 シリィの指先が空中に印を描くと、左手の薬指にはめられた小さな指輪が仄かに輝き、そこから何かが――二条の光の線が、左右のかまどの下にくべられた木炭に向かって一瞬伸びた。その次の瞬間には、炭はめらめらと燃えはじめていた。
 シリィは何ごともなかったかのように、ふたたびかまどに近づいて、フライパンの位置を炎の勢いに合わせてずらし、背後の油壷からすくったヒマワリ油を少し垂らしてから、それを鍋肌になじませるように手首を回した。
 鍋が煙をあげるまでの短い間に、鼻歌を奏でながら、朝取りの新鮮なタマゴを四つボウルに割って撹拌する。そして塩と刻んだ香草とベーコンで味付けしてから、熱の通ったフライパンに、軽くかき混ぜながら一気に流しいれる。
 そこでフライパンを火の中心から外し、蓋をして、そのまま弱い熱で固める。固めすぎないのがコツだ。
 シリィはここでつい、フライパンを返してタマゴをポーチのようにまとめたくなるのだが、ひっくり返さず弱い火で片面だけ焼くのが、バーンの故郷あたりの流儀らしい。故郷といっても、彼は十歳ぐらいの時に飛び出して、それ以来いちども帰ってもいないようだ。にもかかわらず、オムレツに関してはこのやり方でないと、いい顔を見せなかった。
 長いこと冒険者仲間としてバーンにつき合ってきたシリィだが、結婚してみないとわからないこと、というのはあるものだ。それまで気づかなかった嫌な側面を見ることもあったし、逆に、かつてはさほど気にしなかったが、意外とこれは彼の長所なのではないか、と思える部分が見えてくることもある。
(いろいろあったけど、結婚してよかった)
 きっとバーンの方でも、シリィの意外な欠点や美点を見つけてくれているのに違いない。それを思うと、すこし頬が緩んだ。
 床下の氷室から取り出したつけ合せの野菜を、小口に切ってざるにあげ、湯釜で煮立った熱湯をかけて熱を通したところで、食堂の方から椅子を引く物音がした。
「ちょっとまってね、バーン。すぐ出来るから。わたしも一緒に食べるわ」
 手元で作業をすすめながらシリィは声を張ったが、返事はなかった。
「言っておきますけど、わたしの分はお昼ご飯なんですからね。朝ごはんを二回食べるわけじゃないんだから……」
 ふんわりと焼きあがったタマゴを切って皿に盛り、パンかごとバターケースと一緒に銀の角盆にのせると、シリィは行儀悪くつま先でドアを開けて、隣接する食堂に入った。
 そこでシリィは目を丸くした。
「セルリア!」
 驚きのあまり、危うく盆をとり落としそうになりながら、シリィは声を上げた。
 食堂にいたのは夫ではなかった。
 五年前まで冒険を共にしていた仲間――「精霊使い」のセルリアがそこにいたのだ。

   6

「邪魔をしてるよ」
 セルリアは軽く手を見せ、ぶっきらぼうにその一言だけ口にした。
 相変わらず、その表情からセルリアの内心をうかがう事は、はなはだ困難であった。彫刻のような端整な面立ちは、多少の気持の変化では崩れないように出来ているらしい。
 セルリアは「精霊使い」だ。
 この物質世界を構成している諸力を「精霊力」と言い、地・水・火・風・光・闇といった属性の相互作用が、現実の物理的な現象となって物質界にたち現れる。その精霊力を司っているのが「精霊」たちである。彼らは神や人のように人格を有し、「精霊語」という言葉で囁くように呼びかけることで、精霊たちの挙動にある程度干渉することが出来る。その囁きの術を心得たものを「精霊使い」と呼ぶのだ。
 森に住まう妖精エルフ族は先天的に精霊との交感力を持っている。エルフたちと縁の深い「ドルイド」という自然崇拝を主張する教派は、この精霊使いの能力を継承していた。
 セルリアはドルイドであり、「精霊使い」としての技術は一級だ。バーンやシリィも、冒険者であった頃は、彼女の操る精霊たちの力に何度となく助けられたものだった。
 それにしても不可解である。
 彼女――セルリア・キースとは、あの「最後の冒険」で別れたきり、今日の今日まで便りもなかった。それが今になって突然現れるというのは、何かよんどころない事情があるのに違いない。
 そう思ったシリィは、テーブルに盆を置きながら、さも当然という風にテーブルの反対側の席に着いているセルリアの表情を確かめた。
「……どうして?」
「住所はリグに聞いた。外にいたバーンが、ここで待っていろと」
「そうじゃなくて――なにしに来たのよ?」
 なんだか、別れた前妻に押しかけてこられた後妻みたいな口調になっているな、というのを自覚して、シリィは一息いれたあと、少しだけ落ち着いた調子に言い方をあらためた。
「あなた、あの森にずっといるつもりじゃなかったの? どうして今ごろ……」
「状況が変わった」
 セルリアは寸分も表情を変えずにそう言った。
「『彷徨く塔』に、異変があった」
「……なんですって?」
 シリィの顔から血の気がうせた。
「あの、『まっくら森の彷徨く塔』が、どうしたっていうのよ」
 セルリアの言葉は、シリィがバーンとともにつむぎ上げてきた今の幸福な暮らしを、まるで芝居小屋の書き割りのように舞台の上から剥がし去ろうとしているかのように思えた。
「今のわたしたちには、関係ないでしょ!」
「バーンが来たら話す。――それより」
 セルリアはそこで少しだけ表情を緩めた。
「――オムレツがさめないうちに、お茶を淹れた方がよくないか?」
「…………」
 シリィは憮然とした表情のまま、ティーポットに手をかけた。

   7

 冷水を頭からかぶると、寝ぼけていた頭がすっきりしてくる。
 一日を始めるにはすこし遅い時間になってしまったが、きのうは夜が遅かったから、仕方がない。睡眠不足になるよりは寝過ごす方がましだ、とも思った。
 バーンは冒険者を引退してから、しばらくの間、オランの隣国アノスの騎士団に招かれ、銀貨三万枚並の俸給を受けていたが、周囲との不和から出奔してしまった。以来オランに戻って、定まった生業を持つでもなく、一日を自由に使って過ごしていた。
 ファリス神の聖日には神殿に出仕し、司祭としての勤めを果たしてもいたし、たまにシリィと一緒に「賢者の学院」へ出かけ、資料をあさるために書庫に籠ったりしてもいたが、ほとんどの日は、部屋でただ書き物をして過ごすことが多かった。稿の内容は、おもに古代の戦史についての論考が中心で、書き溜めた草稿はすでに数巻の書物として綴じられうるほどの分量になっていた。 筆が進めば夜が遅くなる。自然、朝も遅くなる。
 町場のかたぎの衆が聞けば「ふざけるな」と言いたくなるような、でたらめな生活だろう。だが冒険者時代の蓄えもあったし、ファリス門徒からの寄進もある。たまに請われて、近くに住む町人の子弟に文字を教えたりもしていた。妻と二人のささやかな生活には似つかわしい、ささやかな労働とその見返りぐらいは、ないわけではなかった。
 バーンは今では、きっとこのような日々を得るために、冒険者として剣を揮い、ファリス神の功徳を施してきたのだ、と思うまでになっている。
 なにものにも代えがたい、平穏な暮らし。
 それでも、起き抜けに剣を揮う日課は、毎日こなしていた。
 幼い頃より、厳しい師のもとで身体に叩き込まれた、基本的な「型」を一通りこなす。深呼吸、蹲踞、立ち構え、腰構え、足の運び、剣の位。
 気勢を乗せ、神経を研ぎ澄ませて自分の身体を意識的に制御する。
 今なお均整を失わない、鍛え上げられた巨躯がすばやく動き、左手に握った木剣が空を裂いて、縄を巻いた木偶を打つ。
「いち、に、さんっ!」
 くりかえし、打つ。
 終わると、冬でも汗がにじんだ。背中から白い湯気がたつ。
 手ぬぐいをとって顔を拭き、着物をととのえると、バーンは手をこすりながら家の中に戻った。
(そういえば、セルリアは何の用だろう)
 シリィと同様バーンにとっても、セルリアの来訪は意外だった。
 あの「最後の冒険」――バーンにとって、思い出すのも苦しいあの時のことを、セルリアにしても忘れているわけではあるまい。忘れられようはずもない。
 六人の中で、まず真っ先に一行からの離脱を宣言したのはセルリアだった。他の五人も、とうてい冒険を継続できるような心理ではなかったから、彼女の離脱をいいしおにして、バーンたちは解散したのだ。
 それが今になって、どうしてバーンの家を尋ねてきたのか。
「お待たせ、シリィ」
 応接間を横切って、バーンは食堂に入った。
 食堂では、彼の妻と旧友が、なにやら剣呑な雰囲気の中で沈黙しつつ、独特の芳香を放つベノールの黒茶が注がれたカップをふたつ挟んで向かい合っていた。
 シリィは入ってきたバーンを一瞥するなり言った。
「おそーい!」
「わるかった」
 なにやらいらだった様子のシリィを見て、バーンは反射的に謝った。シリィはバーンの分の茶を注いで、押しやるように彼の前に出した。揺れた茶の液面がすこし縁からはみ出してこぼれる。皿に切り分けられたオムレツは、まだ湯気を立てていた。
「冷めないうちにどうぞ。……さ、セルリア。バーン、来たわよ。説明して」
「ああ」
 と一言こたえて、セルリアはわずかに眉を動かし、茶をひと口だけ含んだ。そして、何の前置きもなく、低い声で言った。
「――『彷徨く塔』が、あの森から消えた」

   8

 オラン西方、エストンの山懐に抱かれた、深く暗い森の中に、その塔はあった。
 時によってその場所を変えることから「彷徨く塔」と呼ばれていたその建造物は、古代王国中期から末期に建造されたと考えられる遺跡だった。
 バーンたちの「最後の冒険」は、この「彷徨く塔」の謎を探ることだった。そしてそこで起こったある悲劇が、彼らの冒険を終わらせたのである。
 彼らにとっては忘れがたい因縁のある遺跡だった。
 セルリアは、その「彷徨く塔」が消えた、と言ったのだ。
「……消えた、というと?」
 バーンが訊ねた。
「言葉の通りだ」とセルリアは短くこたえた。
「でも」とシリィが当惑気味に反駁した。
「あの塔が『彷徨』いていたのは――例の〈星詠み〉の力のせいだったんじゃないの?〈星詠み〉が力を失っている今、塔自体にそんな力が残っているとは思えないわ」
「だが、消えた――本当のことだ」
 三人の食事の手は止まっていた。バーンの前に置かれたオムレツは、半分残って冷めはじめている。
 シリィは自分のカップに三杯目の黒茶を注いだ。遠方にいる父親が送ってよこしたティーセットの中の、小さすぎる白磁のカップだ。使い慣れた陶器のマグカップなら、三杯が一杯ですむ容量だが、あいにくそれは先日割ってしまっていた。
「……〈星詠み〉が、また目覚めたのかしら」
 息を吐きながら、シリィは呟いた。
「まさか、そんな、ばかな」
 バーンは反駁して見せたが、不安を隠しきれなかった。「何かの間違いじゃないのか?」 対してセルリアは表情をぴくりとも動かさずに、かぶりを振って言った。
「塔が消える何日か前に、夢を見た」
「夢?」
「ゲイルの夢だ」
 ゲイル、という名を聞くと、バーンもシリィも面持ちを暗くした。だがセルリアは構わず続けた。
「あいつはボクの枕もとに立って、何か言いたそうにしていた。でも結局何も言わずに、すっと消えてしまったんだ」
「そう……」
「虫の知らせかな。あっちの世界からゲイルが、なにか変事を告げにきたのかもしれないな」
 バーンが何気なく呟いた。手元のカップの縁に目を落としながら、じっと考えていたシリィは、その一言にはっとして顔をあげた。
「それ、正確には何日前かわからない?」
 セルリアは指折り数えて「十五日前」とこたえた。
「同じ日だわ……」
 シリィが独語するように低く呟いた。バーンはそれを聞き逃さなかった。
「同じ、というと?」
「半月前にね、わたし、星を見ていたのよ」
 言うべきか言うまいか迷うように、シリィは話し出した。

   9

 シリィはその夜、いつものように家の屋根の上に登って、星を見ていた。
 バーンの家の屋根は平らなつくりで、屋上階といってもよかった。木の柵で周を囲ってあり、片隅にはベンチがすえつけられている。ベンチには小雨をしのぐほどの小さな庇がかかっていて、シリィはその下に腰掛けていた。
 フォーセリアにおいて、星辰の運行は世界の行方を占う重要な指標の一つである。中には怪しげな星占いを行う、大道芸人まがいの自称・占い師もいたが、正しい知識に照らして予兆を見出す占星術は、実際の現象と結びついた、確固たる科学であった。
 シリィはこの占星術を能くした。
 大陸最高級の学府、オラン王国「賢者の学院」総本部に学房を構える、あまたの「賢者」と呼ばれる者たちの中にあってさえ、彼女の手際は抜きん出たものであって、同年代の中では間違いなく最高の技倆の持ち主だった。
 だが、彼女が星を見ているからといって、必ず占星しているというわけではない。むしろ、ひと時の楽しみのために夜空を見上げていることの方が多かった。その夜もそうだった。
 そして、星がひとつ、輝きを増した。
 北の空にあった星がひとつ、月よりも明るく光を放ったのだ。
 それは一瞬のことだった。
 その星が凶星――破滅の予兆であることに気づいて、シリィは愕然とした。
(滅びの凶星――それがあんなに明るく、短く輝くなんて)
 優雅に星を眺めているどころではなくなった。 空の一点を見据えたままシリィは立ちすくんだ。手が震える。持っていた陶器のカップは指先から滑り落ちて割れ、屋上の床に破片をばら撒いた。その音で、彼女はようやく冷静さを取り戻した。
(『賢者の学院』に報告しなくちゃ)
 ことは自分ひとりの考えで処理できる範囲を超えているように思われた。学院に知らせ、分析を進め、場合によっては王室や騎士団の力も借りる必要があるだろう。
 腰をかがめ、カップの破片を拾い集めながら、彼女はそう思った。

   10

 大陸最大の国家オラン。
 その王都も同じ名をもつ。
 十万人の人口を擁する巨大なオランの都にあって、もっとも広大な敷地を占める建造物は、当然ながら王城である「エイト・サークル」であったが、しかし最も人目を引く建造物は別にあった。
「賢者の学院」。
 魔術師ギルド、とも呼ばれるその施設は、天高くそびえる三棟の塔からなる、不思議な建物だった。
 学院の「三角塔」は、晴れた日であれば、はるか南の海上からも見つけることが出来るという。
 一つ一つの塔は十数階を数える高層建築で、それが翼廊によって相互につながれている。この塔に学ぶ賢者たちが、古代王国時代の建築技術を応用して建てたものだった。
「学院」が、「魔法王国」と呼ばれた古代カストゥールの知識と技術とを復興し、「剣の時代」の治世に役立てようとしていることは、広く世に知られている。長年にわたる研究の積み重ねにより、古代語魔法の呪文を扱う技術と、博物学を中心とする文献学の水準は、徐々に高度になっていっている。
 それにつれて「学院」に学ぶ者の数も増えた。
 当初は、ありきたりの諸王国のひとつ、オランの片隅に発足した小さな研究室に過ぎなかったものが、いまや、大陸全土に支部を構える世界組織にまで成長していた。大陸中の魔術師と賢者が「学院」に籍を置き、それぞれの研究にいそしんでいる。
 シリィもまた例外ではない。
 彼女は、「賢者の学院」本部であるオラン三角塔において、「導師」の称号を得ている、優れた魔術師の一人だった。
 凶星を見た翌日、シリィは他の導師たちを前に、その事実――破滅をもたらす凶星の予兆について報告した。ことがことだけに、緊急会議の招集権を行使したのである。
 ある程度予期していた通り、ひととおり報告を終えた彼女に向けられたのは、概ね疑いの眼差しだった。
「他に、ラドクリフ導師と同じ予兆を見た者はおらぬようだが?」
「見間違いでしょう。お疲れだったんじゃありませんこと?」
「売名行為もはなはだしい……」
「この時期に凶兆など、ありえぬ話だ」
 言い方は様々で、論調にも温度差があったが、ほかの賢者たちのほぼ全員が、積極的もしくは消極的に、シリィの意見に不支持の態度を表明した。
 もっとも大勢を占めたのは、次のような消極的不賛成である。
「たとえ、ラドクリフ導師の仰ることが真実であったとしても、『賢者の学院』としては何もすべきことはあるまい。学院は学究の場である。国の安全を守るのは王室と騎士団だ」
「王室にこの件を報告し、積極的に調査分析し有効な対策を練るように働きかけるくらいのことは、学院にも可能かとおもいますが」
 シリィはそう反論したが、これも一笑に付された。
「一導師の、不確実な報告だけでは、学院も王室も動かぬよ」
「世界が破滅するという。なら、その確たる証拠を持ってきたまえ」
 破滅してからでは遅いのだ。それがわからないのか。――世界を司る何者かが、折角予兆を顕して世の者に知らせてくれたというのに、頭の固い導師たちは一顧だにしなかった。
 ならば、「証拠」をみせてくれよう。
「では、〈星詠み〉の使用を許可願います」
 シリィは意を決してそう言った。
 導師たちは水を打ったように静まり返った。まるでシリィが恐ろしい禁呪を唱えたかのごとく、ある者は非難がましげな視線を投げよこし、またある者は顔を伏せて深く息をついた。
「〈星詠み〉じゃと?」
「……あの呪われた宝珠を使うというのか」
 シリィは金髪を揺らし、強くうなずいた。
「かの宝玉なら、わたしが見た凶星の予兆の意味するところを正しく映し出してくれることでしょう」
 宝珠〈星詠み〉――。
 その内に虹色の輝きを秘めた、拳ほどの大きさの、半透明の真球体である。材質は水晶とも他の宝石ともつかない。古代王国時代の遺跡から発見された「魔法の品」であり、少なくとも三重の封印が古代の魔術師によって施されているため、その真の用途は不明である。
 だが、ある程度の魔力を扱える者は、その宝珠の表面に「未来の姿」を見ることができることが、実験によって確かめられている。もし、シリィが見た「凶星」の意味するところを明らかにしようと思うなら、〈星読み〉を用いることでそれが叶うだろう。
「たしかにあの宝珠は、マナ均衡の点で不安定な魔法器です。しかしどなたかが仰った、『呪われている』というのは正確ではありませんね。――正しく使えば、わたしの予言する『災禍』の真偽と正体を確かめることができるはず。ご許可を」
「……しかし、かの宝珠はいま、オランにはない」
 導師の一人が気弱げに反駁した。
「エレミア領内から見つかった故、エレミア王国の王城、バーニング・アイアン城の地下倉庫に収められたのだ」
(知ってるわよ)
 内心でシリィは、なかば毒づくように言った。そのあたりの事情はシリィも当然知っていた。この宝珠を発見したのは、誰あろう、シリィやバーンたちであったからだ。
 あの「最後の冒険」の末に、手の中に残ったものはただ〈星詠み〉だけだった。そしてシリィは、自らの手でそれを封じたのである。
 オランの隣国であるエレミアは、国土の大半を砂漠が占めていて、その美しい構えの王城は別名「砂漠の薔薇」とも称されていた。
 この王城の地下には、〈星詠み〉ほか「魔法の品」が数多く収蔵されていて、その質・量とも「賢者の学院」にある封印の間に匹敵する。
 エレミア王国は、魔法に対してオランほど寛容ではない。
 かつて古代王国の時代、魔法を使えぬがゆえに「蛮族」の蔑称で呼ばれた者たちが、現在ある王国の基礎をたてた経緯がある以上、そうした風潮はむしろ自然なものであった。どちらかというと、魔法や古代の知識を積極的に復興し役立てようとしているオラン王国の方が例外的なのである。
 いずれにせよエレミアでは、強力すぎる――つまり現在の王室と騎士団による秩序維持に支障をきたす恐れのある「魔法の品」は、発見次第容赦なく、この地下倉庫に封じられた。オランの封印の間が、魔術師のギルドとも言うべき「学院」の自主的判断によって管理されているのに対して、この倉庫は国王の命によって管理されている。
〈星詠み〉もそこにあるのだった。
「……学院のエレミア支部を通じ、地下倉庫の開封と〈星詠み〉の持ち出しの許可を申請してくだされば、事足りるはずですが」
「ラドクリフ導師。エレミアの王室を動かす理由としては、貴女の説明では不十分だと申している」
「こちらが預けたものを少しの間返してもらうだけのこと。十分な証拠を提示するために必要な措置です。――現在のところ、占星術の予兆を確かめるに十分な機能を持つ魔法装置は、〈星詠み〉以外に発見されていないのですから」
「しかしな、相手がな……」
 いままで発言のなかった、壮年の賢者がそれだけ口にして、言葉を濁した。
「……仰りたいことは、はっきり仰ってください」
 シリィが軽く睨みつけるようにその賢者に目を向けると、彼は首をすくめた。
「いや、その……王室を相手に交渉せねばならんだろう。エレミアの」
 この場合の「王室」とはつまり、単に王の一族という意味ではなく、エレミア王国という国家の政庁と同義に用いているのであろう。だんだん不機嫌さを隠し切れなくなってきていたシリィは、その賢者をさらに鋭く睨みつけた。
「談判の相手がエレミア王室だから、何だとおっしゃりたいのです?」
「だから、つまり――『学院』本部はオランにあるわけでな。エレミア王室が管理する品を、国境を越えて貸し出せとは、なかなか申し出にくいものがある。そうは思わないかね、ラドクリフ導師」
「ご承知かと思いますが――」
 シリィは毅然として言った。
「かの宝珠の管理をエレミア王室に委ねたのは、エレミア『学院』支部の政治的判断によるものです。支部への公費助成と引き換えに、いくつかの『魔法の品』の管理権を認めたのです。〈星詠み〉そのものを譲渡したわけではありませんから、所有権はいまなお『学院』にあるはず。『学院』が必要と認め要請すれば、エレミア王室にはそれに応える責任があるはずです。違いますか?」
 しかし導師たちの反応は芳しくなかった。
「エレミアは快くおもわんじゃろうなあ」
「各国王室との無用の軋轢が生じるような事態は避けたい」
「ただでさえ、『学院』組織への風当たりは弱からずという土地柄だけに……」
「オランに持ってくるとなるとなおさらじゃ」
 シリィは、その美しい金髪を逆立てんばかりの勢いで、席を蹴って立ち上がった。
「この『賢者の学院』は、そもそもそうした国家間の利害から独立した、自由な学究の場として設立されたはず。建学の精神を率先して継承していかなければならない我々導師が、そんな弱腰でどうするの! あなたたちの学徒としての矜持はどこにあるの?」
「そうは言ってもな……」
 シリィの熱弁にもかかわらず、恥じ入って威儀を正し聞き入り始め導師はごく少数で、彼らの大半はまだ煮え切らない様子だった。『学院』内での地位が高い者、そのくせ、最近の研究成果がほとんど無い者ほど、その傾向が強いようだ。
「各国王宮内での官職を得ることを目的に、学究にいそしんでおる者も多い」
「エレミアでもようやく、『学院』出身者の評価が上がってきているところだというのに」
(狸ども!)
 シリィは内心で唾を吐いた。他人事のように言っているが、王宮・政庁での官職を得るために「学院出身」という箔をつけたがっているのは、眼の前でぶつくさと偉そうに文句を言うこの男たち自身ではないか。白々しいにもほどがある。
 煮え切らない学院首脳部に対して、もはやシリィの憤懣は、ぎりぎりのところでかろうじて自制されている状態だった。そして、彼女の隣の席にいた導師が不用意に呟いた次の一言は、それを爆発させるに十分なものだった。
「ラドクリフ導師のように、いざとなれば実家に帰ればよい者ばかりではないのだ」
 ――シリィの表情が氷原のごとくに凍てつくのを見て、その場にいた導師たちは一様に「しまった」と後悔したにちがいない。だが遅かった。
 シリィの手がくだんの導師の頭頂にすばやく伸びた。
 次の瞬間、偉そうな巻き毛のかつらが剥がされて宙に舞い、彼のてかてか光る禿頭が、満場にさらされたのであった。

   11

「おかげで内規処罰されて、その後十日間も登院できなくなったし、結局〈星詠み〉借用の件はうやむやにされたし……」
 思い出しながらシリィは、落胆したように溜息をついた。
「そいつはご愁傷様」
 バーンはひととおりシリィの話を聞き終えると、苦笑まじりにそう言った。当のシリィの方は、話しているうちにまた腹が立ってきたらしく、皿の上でトマトの皮を何度も切り刻みつつ文句を垂れた。
「まったく、冗談じゃないわよ。思い出すのもうっとうしい――最高導師もなにやかや理由をつけて引きこもってるみたいで……」
「学院も巨大組織だからね。最高導師の意志がどこまで行き届いているのか……まあ、上手くいっているうちは、だれでも保守的になるものさ――バレン導師は味方してくれなかったのかい?」
 バーンは、シリィの直接の師匠にあたる人物の名を出した。
 高導師バレンは、「賢者の学院」最高幹部の一人であるにもかかわらず、大陸最強と謳われる冒険者パーティ「見つける者たち」を率いて、世界を巡る行動派である。魔術や学問においても、また冒険者としても、シリィにとっては尊敬すべき師匠であった。
 だが、そのバレンは、今回の悶着に際しては不在だった。
「なんだかねえ、『見つける者たち』がまた冒険に出たらしいのよ」
「なんと……かなわないな、彼らには」
 バーンは嘆息した。メンバーの平均年齢が四十歳にもなんなんとする「見つける者たち」が、経済的にも社会的にも安定した暮らしを得た今なお「冒険」へと赴く姿には、仰嘆すべからざる気迫を感じる。二十台半ばで冒険を止めてしまった自分たちのことを考えると、やむを得ぬ諸事情はあったにせよ、すくなからず羞恥を感じた。
「バレン導師、これは噂だけど、いよいよ『無の砂漠』に赴くらしいわ。精霊都市フリーオンを追って何年にもなるけど、ようやく確証をもてたみたい」
「そうか――念願かなって、よかったな」
「よくないわよ! おかげでこっちは散々だったんですもの」
 シリィはフォークをバーンの鼻先に突きつけた。
「バレン導師なら、わたしの話にも耳を傾けてくれただろうし、そうなれば他にも賛同者が……」
「しかし」
 ここまで黙っていたセルリアが、呟くように訊ねた。
「その『凶星』、本当にそこまで深刻な予兆なのか?」
「なによ、あなたまで疑うの?」
 シリィは肩をすくめて吐息した。
「たしかに、具体的に何が起こるのか、そこまでは判らないわ。でもとにかく、何かが破滅する。『滅びの凶星』ですもの。あの輝きの強さは尋常ではなかったから、ひょっとすると国が一つとか、大げさなことになるかもしれないわ。何にせよ、実際に事が起こったら、いくら学院が保守的でも黙っていられないでしょうね」
「それが、『彷徨く塔』の消失と関係あるのか?」
 セルリアがまた低い声で言った。シリィは首を横に振った。
「それも、わからない。けど、ゲイルの夢と凶星の輝きは時を同じくして起こった。わたしはそこが引っ掛かるのよ。でも、もし関係があるとしたら、いずれにせよ鍵を握るのは――」
「〈星詠み〉か」
 バーンがその名を口にすると、三人の間に張り詰めていた緊張が一層高まった。
「〈星詠み〉……また、あの厄介な宝珠に世話になれということなのかしら」
 シリィが「また」と言ったのは、かの宝珠を古代遺跡の奥から持ち出したのが、彼女たち自身であったからだ。
 先にも述べた通り〈星詠み〉は、占星術によって示される予兆を具体化できる。ありていに言って、「未来を見る」力を持っている。シリィが半月前に見た凶星の予兆も、〈星詠み〉があればもっと具体的に読み解くことが出来るかもしれない。
〈星詠み〉が見せるのは、予定された未来の姿ではなくて、不確定な未来の可能性の一つに過ぎなかったが、それでも、国や「賢者の学院」に動いてもらうための、有力な後押しとなることは間違いなかった。
 しかし――より不安なのは「彷徨く塔」の件だった。
「『彷徨く塔』がふたたび動いたということは、その鍵である〈星詠み〉にも、なにかあったのかもしれない。それに加えて、シリィが見たって言う凶星――もし、あの『彷徨く塔』の碑文の言い方を借りるなら、『時』がきた、ということなのかもしれないな」
 バーンは落ち着いた口調で、感慨深げにそう言った。シリィもセルリアも、それぞれの想いをおもてに浮かべて、深くうなずいた。
「時きたりなば、か……」
 そう。あれから五年が経っている。
 バーンたちを解散にまで追いつめた「最後の冒険」。
「彷徨く塔」と〈星詠み〉をめぐるあの探索行から、もう五年もの月日が流れ去ったのだ。