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      「ダンデライオン」
 
 
 

「アイリスは、なんでマーファの神官なん?」
 と唐突にマキが訊ねてきたので、アイリス・レナルドは当惑した。
 彼女たちは、エレミアの都で仕事をひとつ片付けたあと、宿に戻って夕食をとり、二階の部屋で就寝前のひと時をすごしていた。
 この日は、郊外の廃屋に居ついてしまった幽霊を、そこから立ち退くように説得する、という、あまり気味の良くない一件を、神官のアイリスと、舌先三寸にかけては一行の中で随一の魔術師マキが、事実上二人で片付けてきた。
 この世界ではいつしか「冒険者」と呼び慣らされるようになった、旅暮らしの厄介ごと請負業、というのが、今の彼女たちの肩書きだ。
 仲間は全部で六人。ともに旅をするようになってから、二ヶ月目の半ばに入っていた。
 しかし正確に言うと、六人の中で、アイリスだけは、やや立場が異なる。ここまで、マキたち他の五人に、護衛されている身だったのだ。
 オランの貴族、レナルド家の令嬢である彼女の身柄を、安全にエレミアの都まで――そこにいる彼女の親戚の家まで――送り届ける、というのが、そもそもの契約だった。
 だが、ここまで六人連れで旅暮らしの日々をともにするうち、アイリスはいつのまにか、一行のなかで重要な位置を占めるようになっていった。
 なにせ彼女は、オランの大修道院に籍を置く、地母神マーファの神官なのだ。
 当年十四歳、という若さながら、その神官としての能力は修道院長も一目置くほどであり、彼女が使う癒しの法力は、マキたちが、よりリスクの大きい(そしてその分、報酬も多めの)「仕事」をこなすのに、無くてはならないものになっていた。
 そして、無事、当初の目的地であるエレミアに到着し、また今日の小さな事件を彼女が解決したことで、リーダーのスキピオ・カミハッドは、アイリス・レナルドを正式に、一行のメンバーに加える旨を、仲間たちに伝えたのである。
 これは実情の追認のようなものだったが、ささやかながら変化したこともある。
 ひとつ具体的な変化の例を挙げれば、アイリスも今回から「分け前」をもらえるようになった。
「アイリスにとったら、はした金やろけど」
 パーティの財布のひもを握るマキは、銀貨を渡す折に冗談めかしに笑ってそう言った。だが、アイリス自身は、初めて自分の手で稼いだわずかな報酬に、その額面以上の価値があるように感じていた。
 もうひとつ、アイリスの加入で、変わったことといえば、一行のうち女性が三人を占めるようになったことから、スキピオはマキたちのために、部屋を別に取ってくれるようになったことがあげられる。
 それまでは、あくまで依頼者・お客様であったアイリスのみが別室で、他の五人は、女性のマキたちも含め、狭苦しい相部屋で雑魚寝をしていたのである。
 この部屋も「狭苦しい相部屋」であることには変わりなかったが、スキピオたち男性陣に気兼ねなく、女同士の会話が出来るようになるのはありがたい。アイリスにしても、これまで一人寂しく寝ていた夜を、パーティのように楽しく過ごせるのは嬉しかった。
 その女部屋で、就寝前のひと時、ふとした会話の流れで、マキがアイリスに、
「なんでマーファの神官なん?」と尋ねたのである。
「貴族のお嬢やったら、普通はファリス神殿やらマイリー神殿に行くもんや、ておもてたけど――?」 この世界、フォーセリアで信仰されるあまたの神々の中でも、もっとも偉大な五柱の神々――ファリス、チャ・ザ、マーファ、ラーダ、マイリーのうち、地母神マーファは、農耕の神として知られる。本来は生命の神であり、豊饒と多産を司る女神である。
 信者は農民が多く、たしかにマキの言うとおり、特にこの女神とのゆかりの深い一部地域をのぞいて、貴族階級にその信奉者はさほど多くない。上流の子弟が神官として修行を積む場合、秩序を司る神ファリスや、戦の神マイリーの神殿に集まっていく、というのが普通だった。
「なんで、って、おっしゃられましても……」
 アイリスは困った顔で、色ガラスの玉で飾られた髪留め紐を外しながら言った。
「それは、マーファ神のお声が聞こえたからですわ」
 左右にまとめられていた柔らかな栗毛が、さらりと肩口に落ちた。
「神の声」を聞く。
 それが、このフォーセリアにおいて「神官」と呼ばれうる立場になる、大前提であった。強烈な信仰心のもと苦行を積んだ末に「声」を聞くものもいたし、ふとしたきっかけから偶然、神の心を体現したがゆえに、啓示と恩寵を与えられる者もいた。
「神の声」を聞いたものだけが、その力を借りて、法力による奇跡を世の人々に施すことができるようになる。
 そして実際、どの「神の声」を、どのような身分のものが聞くか、ということについて、少なくとも神々の側では、無頓着であるようだった。
「せっかくマーファのお声が聞こえたのに、他の神様の神殿にお勤めしたら、そちらの方が変じゃありません?」
 アイリスは、媚びた様子のない素直な笑顔をマキに向けてそう言った。
「そらまあ、そやな」
 マキは口紅を落とし終えると、そそくさと手鏡をポーチにしまいこんだ。
 森の妖精エルフの血が半分混じっている彼女の顔は、化粧を乗せなくてもそう悪くない面相だったし、まだそんなことを気にするような年齢でもないのだが、アイリスの健康的で自然な魅力を備えた若い肌艶を目の前に見ていると、どうにも鏡を見るのが億劫になる。
「でも、なんでまた、あんたみたいな、鋤鍬持ったことないような『お嬢』に、マーファの託宣があったんやろか」
 すこし意地悪く、マキは言った。
「ミミズもつまんだことないやろ?」
「ミミズくらい、つまめます」
 アイリスはすこしふくれ気味になって反駁した。「レナルド家は貧乏貴族ですもの、農家の真似事だっていたしますわ。――お屋敷の裏に菜園があって、父はそこでマメを育てていました。わたくしも小さい頃、お手伝いしたんですよ」
「ふうん。ほな、そのマメ畑でマーファの声が聞こえたんかいな?」
 マキは訊きながら、ベッドの端に腰掛けた。
 アイリスは首を横に振った。そして、
「初めてマーファのお声が聞こえた時のことを説明すると、すこし長い話になってしまうのですが……」
 と困ったような顔を見せた。
「長い話――ぜひ、聴きたいね、それは」
 横からそう口を挟んだのは、部屋の隅で二人のやり取りを聴いていた、吟遊詩人のクスカだった。
 クスカは黙々と、愛用のリュートの弦を張りなおしていたが、その手を止めて、アイリスに顔を向けた。
「ほら、昨日ジェダンが、自分が冒険に出たきっかけを話してくれたでしょ?」
 クスカが言うと、マキが「うんうん」というように、腕組みをして頷いた。
「あんな堅物エルフにしては、意外な話やったな」
「あの話を、うまく歌に出来れば、って思っていたんだけど……」
 話す間もクスカは手を休めず、なれた指使いで弦をリュートのペグにくくりつけ、小さなナイフで余った部分を切った。
「――でも、アイリスの話にも、なんだか興味がわくなあ」
「歌にするほど、面白い話でもないと思いますよ」
 アイリスは遠慮がちにそう言ったが、マキは笑って、
「そこを面白うするんが、吟遊詩人の腕の見せ所やんか。なあ?」
 と無責任なことをいう。クスカは苦笑して「ま、そうなんだけどね」と肩をすくめた。
「――でも実際、個人の経験談てのは、本人が他愛ない話だと思っていればいるほど、聴く人には面白い話になることが多いんだよ」
「そういうものなのですか?」
「うん。そんなもん。歌は、どこにでも落ちているものなんだ。オランで演った、サスケくんの弟の話も好評だったし――」
 クスカは壁際のテーブルに向き直ると、ツギハギだらけのザックの中から、何枚かの羊皮紙を用意した。
「ボクはいずれ、この仲間六人での冒険を、ひとつの叙事詩にしようと思っているんだ」
 インク壷の蓋を開け、中身が乾いていないことを確かめてから、クスカはまたリュートを手にとった。そして小さな素焼きの笛を短く鳴らし、あらためて弦の調律を始めた。
「アイリス姫も、正式にボクらの仲間に加わったんだからさ。旅に出る前の逸話のひとつくらい、聞かせてもらわないとね。――マキちゃんとスキピオ君の馴れ初めの話なんかも、おいおい白状してもらうとしてさ」
「わたくしも、それには興味がありますけど……」
「せぇへんわ、そんな恥ずかしい話!」
 マキは真っ赤になって反駁した。
 幼なじみのパーティ・リーダーとの仲を、二人から冷やかされるのは、これが初めてのことではない。いちいち過敏に反応するのにも、最近はウンザリしはじめている。
「――そういう自分はどやねん」
 雲ゆきが怪しくなるのを感じた女魔術師は、私事に関しては謎の多い吟遊詩人の鼻先に、人差し指を突きつけた。
「あんたかて、あたしらと会う前の旅暮らし、長かったんやろ? 悲しい恋歌の一つ二つも、作れるんとちゃうんか?」
「うん。まあね」クスカはあっさりそれを肯定した。
「リクエストがあれば、いつでもステージで聞かせてあげるよ。――もちろん有料で」
 マキがげんなり閉口するのを横目に、調律を終えたリュートを抱えて弦をかるく鳴らし、吟遊詩人はふたたび、アイリスに目を戻した。
「とにかく。アイリス姫と豊饒神の出会いの顛末、ぜひ聞かせて欲しいな」
 アイリスは、二人ぶんの期待に満ちた眼差しを受けて、諦めたようにため息をついた。
「……わかりました。長くならないように、かいつまんでお話しますね」
「そやな。夜更かしは身体に毒やから」
 マキは頬に夜風を感じて立ち上がり、窓辺に歩み寄って、よろい戸を閉じた。

***

 クロシェス、という、オラン王国北西部の城下町が、アイリスの故郷だった。
 彼女が、その町の周辺十二郡を治める小領主の娘として生まれたのは、なにも彼女自身が望んだことではない。しかし彼女はそれを不満に思ったことは無かった。
 アイリスは、父である領主レナルドが善政を布いていたこともあって、城下の住民にも愛される「姫様」だった。
 城下、といっても、クロシェスの城は、たいした防御設備もない、少し大きな商人の屋敷と同じ程度の規模で、どう贔屓目にみても「館」というところだ。その周囲にできた町も、大仰な城壁などない、農村の集落に毛が生えた程度の、ちいさなものであった。
 彼女が子どもの頃――などというと、今は子どもでないみたいだが――には、しょっちゅう館を抜けだしていたものだ。同年齢ぐらいの子供たちとともに、普通の子どもがやるような遊びに参加したり、収穫を祝う祭りに、領民に混じって参加したこともある。
 レナルドそのひとも、もとが富農からなりあがって爵位を得た家柄で、貴族然としない家風に育ってきたから、あまり気負わずに領民と接する性質の持ち主だった。アイリスにしてみれば、べつだん意識して「民と触れ合おう」などと思っていたわけではなく、父のやりかたを真似て、ごく自然にそうしていたのに過ぎない。
 父は、娘の一人歩きを決して推奨することはなかったが、しかし町の外に出ない限り、禁止はしなかった。為政者の目が行き届かないほど大きな町ではなかったし、懇意にしているこの町の盗賊ギルドの長にも、また自分が選抜した衛視隊にも、レナルドは全幅の信頼を寄せていた。
 アイリスの行動範囲は、年齢を重ね、成長するにつれて、だんだんと広がっていった。
 そうなると、これまで見えてこなかったもの、見ようとしてこなかったものが、ふとしたことで、否応無しに目に入ってしまうこともある。
 彼女が母の死因を知ったのは、十二歳のときだった。
「いかがなさいました?」
 その日、町から館に戻ったアイリスをみて、出迎えにいった執事のローレンツは、彼女の様子がおかしいことに気づいた。肩を落とし、こころなしか青ざめた表情をしている。
「ローレンツ」
 と、アイリスは忠実な執事の名を、常ならぬ細い声で呼んだ。
「……お母様が、私を生んだのは、十二年前ですよね」
「姫様は、十二歳でいらっしゃいますから、そういうことになりますな」
 そつなく応じながらも、ローレンツ執事の脳裏に嫌な予感がよぎった。
 アイリスは続けて確認した。
「十二年前、お母様はお幾つだったのかしら」
「…………」
 ローレンツは押し黙った。
 アイリスは、小さなコートを執事の手に押し付けるように預け、
「答えて、ローレンツ」
 と、涙声でせがんだ。
 執事は観念した。
「奥様は当時、ちょうど四十歳でいらっしゃいました」
「そう――四十……」
「お察しの通り」
 ローレンツは静かに、目の前の少女が知りたがっている事実を告げた。
「奥様は、お嬢様がお生まれになったあと、肥立ちがお悪うございまして――残念ながら、回復にいたらず、お亡くなりになられました」
「やはり、そうだったのですね」
 アイリスはまた伏し目になって、力なく吐息した。
「わたくしが生まれたから、お母様は……」
「ご学友のどなたかが、そのように仰ったのですか」
 ローレンツが尋ねると、アイリスは口を開かず、ただ頷いた。
 この日、彼女はいつものように、町外れの賢者の家に手習いに行っていた。
 市井の子供たち――といっても、ある程度裕福な家の子弟だったが――と椅子を並べ、文字の書き取りや数の勘定などを学ぶのは、貴族の子女としては異例かもしれないが、それがレナルド家の家風であった。民の心をしらなければ、領主たる資格は無い、というわけである。
 だがこの時は、その家風が裏目に出た。
 学友の中には、アイリスを嫌いな者もいたし、逆に、アイリスのほうで嫌っている者もいた。同好の士で集まったわけでもないから、人数が寄れば、それは当然のことだ。
 だから喧嘩もする。さすがに女の子がこの年齢になると、取っ組み合って、ということは無かったが、激しい言い合いになることもあった。
 アイリスの父は、そういうことも含めて「教育」であり「訓練」である、と考えていた。しかしこのときばかりは、わずかな後悔の念に駆られた。
「知ってしまったか」
 執務中、ローレンツから娘の様子を聞いたレナルドは、沈痛な表情でため息をついた。
「ご学友と口論なさっていらした折、お嬢様が生まれなければ、奥様はご存命だったろう、と罵りざまに言われたよしにございます」
「その相手の子が、当時のことを知っているわけもあるまい。おそらく、親が言うのだ」
「人の口に、戸は立てられません。どうか、お咎めなきよう」
「わかっている――どうせ、いつかは知れることだった。わかっているが……」
 アイリスは帰宅以来ずっと、部屋にこもりっきりであった。
(あの子には、まだ重すぎる)
 レナルド自身、十二年たった今も心の整理がつかないことであった。娘が感じている罪悪感の、少なくとも半分は、本来、彼が負うべきものなのだ。
「情けないものだな……まったく」
 吐き棄てるようなその独語は、自分に向けられた言葉であった。

 それ以来、アイリスは素直な笑顔を見せることがまれになった。
 手習いの私塾もさぼりがちになった。
(生まれたとき、私はすでに母親殺しの罪を負っていた)
 父も執事も、そのことをすこしも咎めなかったが、それがかえって、アイリスの気持ちを救われないものにしていた。
(お父様は――きっと心のどこかで、わたくしを疎んじているのかもしれない)
 にもかかわらず、娘を気遣って、その気持ちを殺しているのではないか――
 重すぎる、ぬぐい得ない罪の意識に加えて、心の幼さに比べ明敏すぎたアイリスの知性の声は、そんな疑念を常に彼女に抱かせた。結果、父のやさしさにも、素直に応じることができないでいるのだった。
 そんな日々が続いて、一週間ほども経ったある日。
 気を奮って、手習いに行く、と言い置いて館を出てきたものの、館の門から一歩外に踏み出したとたんに気がなえ、足が止まってしまったアイリスは、かといって、すぐに引き返す気にもなれず、とぼとぼと、南門の市に足を向けた。
 町の南のはずれには、商売の神チャ・ザの小さな祠があって、その門前に、週に二日だけ市が立つ。
 クロシェスは、オランの都から北の街ミードに向かう街道の途中にあった。大陸をまたにかける交易商人たちも、しばしばここに立ち寄って露店を広げるので、市の立つ日はそれなりの盛況を見せる。
 表通りの道端には、色とりどりの房飾りやのぼり旗が並んでいる。
 焼きたてのワッフルの甘い香りが漂う店の前では、リュートを抱えた楽士が陽気な音楽を奏でて派手な客寄せをし、行列ができている。
 かとおもえば、その斜向かいで絨毯を地べたに広げ、打ち直したあら物の類を所狭しと並べた店では、無愛想な店主が煙管をふかして肘をつき、じっと客を待っている。
 ひとつ先の辻で宝飾品を売っているらしい店の店員が、身体の前後にその旨をでかでかと記した看板を吊って、太鼓と鐘を鳴らしながら往来を練り歩き、アイリスの横を通り過ぎていく――
 だが、そんな周囲の喧騒も、今のアイリスの視界にははいっていなかった。
 彼女は、立ち並ぶ天幕の合間をふらふら逍遥するうち、いつのまにか表通りを抜けてしまっていた。
(ここは……)
 あたりを見渡すと、そこはすでに、町の外であった。
 いつのまにか、集落を囲む柵の外に出てしまっていたのだ。振り返ると、後方に、開けっ放しになっている南門の木戸が見えた。足元の道は、石畳に覆われた街路から、砂利を敷いた街道へと変わっている。
 道の両側には田園が広がっていた。
(門の外に出るのは、初めて――)
 アイリスはふたたび前を向いた。
 南に向かう街道が、ずっと遥か先まで続いているのが見えた。
――もし。
 もし自分がこのままクロシェスに戻らずに、あの地平の彼方に消えていけたなら。
 ふと、そんな衝動が、幼い心によぎった。
(わたくしなど、いないほうが良い――だったら)
 思い立つと、足は自然と、町から離れていく方向に向いた。

 そうして、いったい何時間、この街道をそぞろ歩いたのであろうか。
 アイリスは次第に、足の疲労を自覚するようになった。一歩進むたびに、足の裏、土踏まずのあたりが、前後に引っ張られるような激痛にさいなまれる。
 膝から下は気を抜くと震えだし、力を入れると筋がつりそうになる。
 周囲の田園風景は、いつしか不毛の荒れ野に変わっていた。
 目の前の道は、まだまだ遠くへ、遠くへと長く続いていて、終点も、次の町すらも、なかなか視界に入ってこなかった。
 かといって、今からクロシェスに戻るだけの体力も残っていない。
 それに追い討ちをかけるように、空腹も覚え始めた。喉も渇く。
(これは、神さまの罰なのだわ)
 彼女は自分にそう言い聞かせた。
(罪に対するあがないを、この身をもって――)
 それはまったく、アイリスの自己陶酔に過ぎない思い込みだったのだが、無理やりにでもそう考えることで、本来彼女が到達できるはずの場所より遠くまで歩くことができた。それがわずかながら、彼女の運命を変えたといっていい。
 日は西に傾き始めていた。
 町の近くではまだ往来もあったが、いまや彼女は、荒野を貫く街道の真ん中を、一人ぼっちで歩いている。
 気づかぬうちに、足をひきずるようになっていた。
 いつのまにか、猛烈な眠気が襲い、まぶたが重くなった。
 頭の中が真っ白になって、なにも考えられなくなった。
 アイリスは力尽きて、倒れた。

***

 目がさめると、アイリスは温かな毛布の中にいた。
 半身を起こして周囲を見渡すと、幌を張った荷馬車の中であることがわかった。薄暗い。外は夜のようだった。
 目が慣れると、自分の周りの様子が見えてきた。大きな行李やつづら、布袋などを積み込んである荷台の、わずかな隙間で、彼女は寝かされていたようだ。
 アイリスは後部の幌をすこしあけて、ちらりと外の様子をうかがった。その時、
「おはようさん」
 アイリスの背後、御者台のほうから声がかかった。
「よう寝たか?」
 女の声だった。ひどくクセのある通商共通語だが、アイリスはなんとか聞き取ることができた。
「……ここは? それに、あなたは?」
「その前に、挨拶やろ。おはようさん」
 御者台の女性は、ぴしゃりとそう言いながら、角灯を掲げて、荷台の幌の中に顔をのぞかせた。アイリスの周囲は、ぱっと明るくなって、声の主の相貌もはっきりと見えるようになった。
(エルフ――)
 アイリスの目は、女性の顔の両脇から飛び出している、先の尖った耳に注がれた。それは、森に住まう妖精、エルフの特徴としてよく知られているものだ。
「……おはよう、ございます」
 アイリスは、たどたどしい共通語でそう言いながら、エルフの女に頭を下げた。女は面白げににやりとした表情を見せた。
「まあ、見ての通り、いま夜やけどな。――共通語、喋れるのんやね」
「すこしだけです」
「ほな、東方語にしときますえ」
 と、エルフはアイリスの耳慣れた言葉で言い、馬車から降りてくるように指示した。
 アイリスはそれにしたがって、起き上がり、毛布を簡単にたたんでその場に置くと、足元のおぼつかない荷台の上を這うように移動して、馬車から降りた。
 さきほどのエルフの女性は、すでに車の後部に回ってきていた。
 そしてもう一人。
 エルフの女性の隣には、鼻の下にちょび髭を生やした、少壮の小男が並んで立っていた。彼の方は、アイリスと同じ人間のようだ。小男はアイリスが顔を見せると、
「おはようさん」
 とにこやかに東方語で挨拶して、微笑んで見せた。
「お、おはようございます。あの……」
「うちらは」と、エルフがアイリスの疑問を先取りして言った。
「オランの方からきた商人や。この先にあるクロシェスちゅう町までいくんやけど……あんた、方向そっちでええか?」
「……はい」
 アイリスは、一瞬躊躇した後、そう答えた。
「ありがとう、ございます」
「お礼はかまへんよ、ついでやったし。せやけど、びっくりしたわ。なあ、あんた」
「そやなあ。あないなとこにぶっ倒れて。何事かと思うで」
 感心したような口調で、小男はそう言った。
「ろくに荷物も持たんと、よう歩くわ」
「さ、こっちで暖まり」
 エルフが手招きした先には、焚き火が起こしてあり、そのまわりにはさらに何人かの人影が見えた。
 荷馬車は、先ほどまでアイリスが寝ていたものを含めて三台あり、隊商のメンバーは十人ほど。女性や子供――いや、一見子供に見えるが、草原の妖精グラスランナー――も混じっている。
「安心してええ。人さらいやらとは違うさかい」
 男が言うと、
「ま、あんたはそう見えへんこともないけどな」
 と、エルフがすかさず彼のほうを向いて応じた。
 男は「すんません」と舌を出し、自分の額を右手でぱしっと叩いて見せた。
 アイリスは、自分が笑っていることに気がついて、すこし驚いた。

 アイリスが火の傍によると、酒を飲みながら歌っていた彼らは、彼女のほうを向いて、口々に歓迎の言葉をかけた。
「よ、よろしくおねがいします」
 面食らったアイリスは、それだけいうのが精一杯だった。
「いっぺんに話したら、お嬢ちゃんびっくりしはるやろ」
 先ほどのエルフの女性が、立ち尽くしているアイリスに、自分の隣に座るように促した。ひげの小男は彼女の反対側に座って、焚き火の縁に寄せてあった鍋から、底にすこし残っていたスープを一杯かい寄せて盛り、アイリスに手渡した。
「残りもんですまんけど、お腹すいてるやろ」
「はい……どうも」
 彼は他の仲間たちから、「隊長」と呼ばれていた。どうやら、この隊商のリーダーであるらしい。エルフの方は「奥方」と呼ばれていた。
 若く見えるエルフの「奥方」が、少壮の「隊長」の妻であることを理解するのにすこし時間を要した。エルフ族が人間より長生きで、見た目よりもはるかに年上であることが多い、というのは、アイリスも知識として知っていたものの、「奥方」が「隊長」の娘だと言われても不思議には思わなかったことだろう。
 彼らは、大陸のはるか西の方から来たのだ、といった。
「ここは、どこなんでしょうか」
 アイリスはきょろきょろと周囲を見渡しながら訊ねた。
 どうやら、街道からは外れた場所のようで、見慣れない光景が広がっている。
 エルフの奥方は、少女の不安げな様子を見て取って、優しい声で説明した。
「ここは古代遺跡や」
「古代……遺跡?」
エルフの奥方は頷いた。「ゆうても、すっかり荒らされて、なーんも残っとらせんけど」
 かつてはこの世界――フォーセリアの全てをその支配下におさめていたと言われる、古代の魔法王国・カストゥール時代の遺跡。
 だがそこには、往年の栄華を偲ばせる何物もなく、無残に砕かれた大理石の壁や柱が、荒れ野のそこかしこに散乱しているだけだった。
「クロシェスの南。街道から、ちょっと西に外れたところやな」
 商隊はその遺跡近くにキャンプを張っていた。
「こういう遺跡の中は、安全や。夜盗や何やらは、気味悪がって近寄らん。まあ、たまに妙な怪物が住みついとったりすることもあるけど、ここは空き家みたいやし」
 と、隊長はアイリスに説明した。
「何の遺跡なんですか?」
 アイリスが訊ねると、隊長は首を横に振った。
「さあ、知らん。でも、大した価値もないやろ。学院が調査した形跡もないし――けど、ワシの経験から言わせて貰うと、これは多分、隠し神殿ちゃうかな」
「隠し神殿?」
「古代王国では、宗教を禁止しとったさかい」
 奥方が説明を引き継いだ。
「神官たちは人の寄らん辺境や荒地に神殿をつくっとったんやて。前にうちら、オランの都の近くで、ラーダ神の隠し神殿を見たことがあって……」
「なんや、そこに近い雰囲気があるね、この場所は」
「雰囲気……ですか?」
「まあ、説明せえ、て言われたら、うまいことでけへんけど――そやなあ、なんとなく神聖な、ちゅうの? そんな感じせえへんか?」
 隊長はそう言いながら、神に祈るような仕草を、冗談交じりにやってみせたが、アイリスにはよく分からなかった。
「この一帯、全体が窪んだみたいになってるやろ。きっと、その辺の建物は、もともと地下に埋まっとったんや。それが、魔術師たちに見つかって掘っくり返され、破壊され、今は野ざらしになっとる。かわいそうになあ……」
「まあ、どっちにせ」
 と、奥方は手のひらを顔の両側でくるくる振った。
「うちらエルフには理解できひんけどねえ。禁止する方の心情も、こんなところに隠れて、たむろする人たちの心情も」
 森の妖精族は、世界の原理の全てが、「精霊力」と称される力によって理論的・体系的に説明できると信じている。したがって、不条理で非論理的な「神への信仰」なるものの意味や価値を認めない立場にある。
「なんでまた、人間ゆうのんは、神サマなんて無意味なもんに関わりたがるのやら、わからへん」
 そう言う奥方に対して、隊長はやや眉をひそめて見せた。
「無意味っちゅうことはないやろ。俺と結婚する時、おまえもチャ・ザ神に永遠の愛と幸福を誓うたやないかい」
「そやから、言うてるのやおへんか」
 そっけない奥方の一言に、隊長はぐうの音も出せずに黙り込んで、フン、とそっぽを向いた。

 その夜、アイリスは奥方と同じ天幕で、一緒に並んで床についた。
 しかし、眠れない。ついさっきまで馬車の中で寝ていた、ということもあったが、生まれて初めてクロシェスの外に出た、という実感が次第に自覚できるようになり、就寝の時間を迎えても、その興奮で目がさえてしまうのだ。
「眠れへんの?」
 奥方は、落ち着かない様子のアイリスを気遣って声をかけた。
「子守歌でも歌うたげよか」
「だ、大丈夫です」
 アイリスは毛布を頭の上まで引っ張りあげて、早く眠ろうと努力した。
 半身を傾けて枕に肘をつく格好で、苦笑を浮かべつつ、奥方はアイリスの挙動に温かい眼差しをおくった。
「あんたのお母ちゃんも、心配してるんとちがう?」
「……いいえ」
「いいえ、て。そんなわけないやろ」
 奥方の言葉に他意はない。
「母は、もうこの世にはいません」
 すこしためらってから、アイリスは、簡単に事情を説明した。
 母の死因を知ってしまった日のこと。
 父の様子。
 そして、どうして自分が街道を歩いていたのかも。
「……わたくしのせいで、お母様は死んだのです」
 そう考え始めるとまた、たまらない気持ちになる。
 そして、父にもローレンツにも言わなかったことを、会ったばかりの異種族の女性に打ち明ける気になった。
「これまでずっと、お母様のことを恨んでいました。どうして自分には、他の子と同じような母親がいないのだろう。どうして、お墓の下でずっと眠っているのだろう――ずっと、そんな恨み言ばかり、心の中で唱えてきたんです。それなのに……」
 アイリスは顔を伏せた。
「悪いのは、自分だったのです。わたくしは、生まれてくるべきではなかった――」
「そんなことあらへん」
 エルフの奥方は、迷う様子もなく、首を横に振った。
「あるわけないやろ。そういう考え方は、お母ちゃんに対して失礼やし、あんた自身も不幸にしてしまうえ」
「でも……」
 抗弁しかけたアイリスを制して、奥方は起き上がり、床の上にあぐらをかいた。そしてアイリスの寝ている方に向き直り、そのまま昂然と背筋を伸ばした。
 エルフの奥方は、何から話そうか、とわずかのあいだ逡巡してから、口を開いた。
「……うちらにも、娘がひとりおってね」
 そこでいったん言葉を切り、照れくさそうに、奥方は頬を掻いた。
「――いまは手ぇかからんようになったさかい、旦那の実家に預けたあるんやけど、その子を生んで、初めて顔をあわせたときにな、こう思たんよ――ああ、うちは新しい世界をひとつ、生み出したんや、て」
「世界――ですか?」
 きょとんとするアイリスに、エルフの奥方は頷いた。
「そうや。――あの子、産婆さんに抱かれてな、かわいらしい目ぇつむって寝とって……それを見て思うたんや。いつか、このまぶたが開いて、その中にうちの顔が映るようになるとき、うちは、あの子の世界の住人になるんやなあ、て。そしてその目で、この子は自分の回りの世界を見て、あの、ちょぼっと生えとるちっちゃい手ぇで触って感じて、自分の世界を作っていくんやなあ、てね。――わかる?」
 アイリスはかぶりを振った。奥方は、すこし困ったように、また頬を掻いた。
「まあ、わからんやろけど。……とにかく、母親ちゅうのはみんな、この世の終わりみたいな痛い思いして、新しい世界を産むんや。そう考えるとなあ――それは、とっても誇り高いことなんや、て思えるのよ」
 奥方はアイリスの頭に手を伸ばして、優しく撫でた。
「あんたのお母ちゃんかて、あんたが生まれたとき――エルフのうちとは感じ方が違うかもしれへんけど――きっと、誇らしい気持ちになったに違いないんや」
「でも……」
「そやな。お母ちゃんが死なはったんは悲しいことや。なんぼでも泣いたらええ。恨んだことかて、きっと許してくれはる――けどそれで、自分が生まれたことまで、呪ったらあかんよ」
 アイリスは、奥方の瞳の中を確かめるように、じっと見つめ、そして小さく頷いた。奥方は微笑んで、左手の指先でアイリスの頬を軽くつついた。

 その夜、アイリスは夢を見た。
 奇妙な夢だった。
 彼女は、枝の上を歩いていた。とてつもない大樹――そう、クロシェスの町がそのまますっぽりと治まってしまいそうな太さの、高さといえば天まで届くような、年経た幹を持つ巨大な樹。そこから、何本も絡み合って生える、相応に太く長い枝の上を、彼女は枝先から付け根の方に向かって、おずおずとした足取りで歩を進めていた。
 周囲の情景は、よく認識できない。青い空の中であるようにも、星ぼしの瞬く夜空であるようにも感じられて、ただ、枝の末端の方から聞こえる、葉や枝がこすれあいざわざわいう音だけが、ほんのかすかにその情景を満たしていた。
 アイリスの目の前に、いつしか大樹の幹があった。
 木肌は節くれだって、所々に大小の洞が見える。アイリスが歩いてきた枝の付け根にも、彼女がちょうどくぐれる位の、比較的小さな洞が、ぽっかりと口をあけていた。
 どうしてその中に入っていくのか、また、どうやって入っていったのかも自覚しないまま、アイリスは、大樹の幹の中に入った。
 枝葉のざわざわはまだ聞こえていたが、目の前の情景は、とうてい幹の中のものとは思えなかった。なにか青白い、弾力のあるつぶつぶしたものが、アイリスの周囲の空間に充填されている。彼女はその中を泳ぐように押し分けながら、さらに奥へ向かって進んだ。
(ここは、どこなのかしら……)
 そう思ったとき、ふと、ざわざわに混じって、人の言葉が聞こえたような気がした。
(――の子の名前、どうするか決めたん?)
 その声は、アイリスの聞き違いでなければ、エルフの奥方のものだった。
(そうやなあ)――隊長の声だ。
 アイリスは耳をこらした。すると、すぐ目の前の白いつぶの一つが彼女の目の前ではじけた。そして、ひとつの映像が、目を介さずアイリスの意識に直接投影され始めた。
 それは、冬の情景だった。
 どこか知らない場所。森の近く、丘の上の小さな屋敷。その一室に、あのエルフの奥方がいる。窓の外には雪が静かに降っている。あかく燃える暖炉の傍、揺り椅子に座って、奥方は毛糸でなにか編んでいる様子だった。
 奥方の容姿は一点を除いて、アイリスの知っている奥方と寸分も変わらなかった。ただひとつ異なる点は、彼女の下腹部が、特徴的なふくらみを帯びていることだ。それが肥満によるものなどではないことを、すぐにアイリスは悟った。
(これは……過去の、記録?)
 部屋の反対側の隅では、隊長――彼はだいぶ若く見えた――が落ち着かない様子で、行ったりきたりしている。
(ワシらがはじめて逢うた時、「東のはての島」の占い師が言うとった、あの話、覚えとるか?)
(ああ、例の、この世のどこかにあるっちゅう「真実の大樹」の話?)
(そや。世界の始まりから、フォーセリアの全ての出来事を記録しとるという、アレや。それにちなんで――)
 ここが、その樹なのだろうか。
 確かめるように、アイリスはその映像の中に手を差し伸べようとした。だがその指が何かに触れた瞬間、映像は消えた。
 そして一面の白いつぶつぶの中に意識が引き戻された。と、そのとたん、彼女の伸ばした指先から光の波紋のようなものが広がり、無数のつぶつぶがその波によって振動し始めた。
(なに――?)
 間断なく聞こえていた木の葉のざわざわが、急に、耳障りなほど大きな音になって、アイリスの鼓膜を刺激しはじめた。
 いや、音が大きくなったというより、アイリスの聴覚が次第に鋭敏になっていったのかもしれない。
 やがてそのざわざわの、音素のひとつひとつが識別できるまでになると、アイリスははっと息を呑んだ。
(この音――)
 ずっと聞こえ続けていたその音は、木の葉や小枝の軋る音などではなかった。いや、先刻までは真実そうだったのかもしれないが、いまはすでに違うものに聞こえる。
(赤ちゃん?)
 それは、何千何万、何億、いや――無数に重なった、赤子の産声の響きであった。
 アイリスは急に恐怖をおぼえて、必至でつぶつぶをかき分けた。進んでも進んでも、産声の波は止む様子もなく、むしろ一層、はっきりと大きく聞こえるようになった。
(おかあさま)
 アイリスはいつしか、必死で母の姿を探していた。
(おかあさま――おかあさま!)
 小柄なその体、幼いその心の、全身全霊を搾って出したようなその叫びが響き渡ったとたん、また、つぶつぶの一つが目の前ではじけて、また先ほどとは違う映像が脳裏に映し出された。
(クロシェス――)
 それは見慣れた自分の町の光景だった。
 そして、住み慣れたレナルドの館――その一室。広い窓から光が差し込む、大きな寝台のある部屋。
 アイリスの目はその一点に釘付けになった。
(お母様……)
 それは直感でわかった。
 寝台に横になって、その隣で眠る赤子に優しい眼差しを向けている女性――赤子は自分だ。そして、見ているのは母だ。母の相貌は若干やつれているように見えたが、温かみのある表情は、無条件にアイリスを安心させた。
(アイリス――ごめんなさい。ずっと、つらい思いをさせてしまいました)
 映像に被るように、母の声が聞こえた。その言葉は、映像の中の赤子に向けられたものではなく、それを見ている、今の自分に対するものであった。
(おかあさま……いいえ。わたくしのほうこそ、謝らなくては)
(アイリス。――ほんとうに、生まれてくれて、ありがとう。わたしはあなたを――)
 母の声は小さく、遠くなっていった。
(おかあさま!)
 アイリスは、その声を追いかけようと手を伸ばし――。
 そして、夢から覚めた。

 起き上がったとき、アイリスは汗びっしょりになっていた。
 外はまだ深夜だ。隊商の天幕の中、奥方は隣で、すやすや寝息を立てている。
 アイリスは半身を起こした姿勢のまま、じっと自分の掌をみつめた。
(お母様の、夢――それとも、わたくしの記憶?)
 母が、死後の世界から語りかけてきたのであろうか。夢の内容はとりとめのない物という印象しか残らなかったが、最後の母の言葉だけは、真実そうだったのではないか、とアイリスには思えた。
 アイリスは、掌をぎゅっと握って目を瞑り、その言葉を心の中に刻み付けるように、口に出して繰り返した。
「ありがとう……なんて……」
 頬を赤らめて、アイリスは両手を組んで胸の上に置いた。
 と、その時。天幕の外に、人の気配を感じた。
「誰?」
 アイリスの意識は、急に現実に引き戻された。
「そこにいるの?」
 今の自分の言葉を聞かれただろうか?――だとすると、かなり恥ずかしい。
 アイリスは手探りであたりをさがし、自分の背負い鞄を引き寄せて、中から一冊の分厚い教科書を引っ張り出した。相手の出方によっては、これでぶん殴ろうというつもりだ。
 人の気配は、だがアイリスの声に応答する様子もない。
 彼女はそろそろと立ち上がって、忍び足で天幕の出入り口に近寄り、恐るおそる外の様子をうかがった。
(人――子供?)
 暗いのでよく分からない――はずだった。
 しかし天幕の出入り口の前に、小さな女の子がじっと立って、細い隙間からのぞくアイリスの目を見返しているのが、暗闇の中でもはっきりと伺えた。
 女の子――年はアイリスよりもだいぶ下だ。七つ八つ、というところだろうか。古風ないでたちで、つばの広い帽子を被っている。
 アイリスは教科書を床に置くと、出入り口の閉じ紐を解いて、外に出た。
「あなた、誰? どこから来たの?」
「…………」
 女の子は口を開かなかった。そこでアイリスは、おかしなことに気づいた。目の前にいる女の子の体全体が、薄ぼんやりとしていて、向こうが透けて見えるのだ。
(幽霊――)
 どうやらそのようだった。
 だが、その単語が喚起するような怨念や、生あるものへの敵意といったものは感じられない。
 アイリスは驚いたが、不思議なことに、恐怖感はむしろ薄れていた。
 相手がちいさな女の子の姿をしていることもあったが、その幽霊に自分が出会うことが、ずっとまえから運命付けられていたのではないか、という根拠の無い思いが、急にどこからともなく湧きあがってきたからだ。
 女の子はアイリスに向かって微笑んだ。そして、手招きするような素振りを見せてから、くるりと背をむけ、すーっと、遺跡の中に移動してゆく。
「……ついて来い、ということかしら」
 アイリスは天幕の中に戻って、毛布を三つ折にして肩からかけると、幽霊を追いかけるように、遺跡に向かって走り出した。

***

 遺跡群は、その周辺のわずかな領域に閑散とした遺構が残っているだけの小さなものだ。地上には、四本の太い柱の土台の部分だけがそのまま残って、遺跡群の四隅を固めている。柱そのものは倒れてしまっていて、土台の周辺に無惨な姿をさらしていた。
 その柱に取り囲まれた領域は、上から見れば楕円形の、浅いすり鉢状になっていて、掘り下げられた部分を囲うように置かれた環状列石が、部分的に残っている。
 そして、すり鉢の底に、崩れた建物の跡が寂しく残っており、隊商のキャンプはその中に張られていた。
 幽霊の少女は、ときたま立ち止まってアイリスのほうを振り返りながら、だんだんとそのすり鉢の外縁に向かっていた。
(遺跡の外に出るのかしら)
 暗闇にはだいぶ目が慣れたが、やはり足元がおぼつかないのは不安だった。実際に、さっきから二回ほど転んでしまっている。
(明かりを持ってくればよかったわ)
 幽霊は、環状列石が残っている一角で止まって、そこでまたアイリスを振り返り見て、手招きした。
 どうやら、そこが目的地のようだった。
「井戸……?」
 幽霊は、傍らに残る古井戸を指差して微笑んでいた。
「この中に、何かがあるの?」
 幽霊はそれには答えず、その場でまた、ひゅっと姿を消してしまった。
 アイリスは井戸に近寄って、中を覗き込んだ。底は――暗くて見えない。傍にあった小石を、ためしに落としてみると、底に落ちる音が返ってくるまで、すこし時間がかかった。水の音はしない。
 深い――しかも枯れている。落ちたらひとたまりもない。
 しかしアイリスには、そこで諦めようという気が、なぜか起こらなかった。
 井戸の側壁に積まれている石材は、表面が風化していて、その隙間に手をかけながら行けば、もぐっていくことは出来そうだ。
(縄梯子でもあればよかったのに)
 そう思ったが、無いものは仕方がない。
 アイリスは意を決して靴を脱ぎ、足の指先で壁面を探った。足がかりを見つけると、そこに小さな足を置いて踏ん張り、縁にぶら下がるように手をかけて、身体を井戸の中に沈めた。
 そうやってしばらく、順調に下におりてゆくことが出来たが、彼女の体力では、この過酷な挑戦を継続するのは、やはり難しかった。それに、昼間にクロシェスから歩いてきたときの疲労もある。
 自分の身長の四倍ほどになる深さまで降りたあたりで、足先の感覚が微妙にずれた。
 裸足の指先が空を切る。
「きゃ!」
 アイリスは短い悲鳴をあげた。ふわり、と一瞬の浮遊感のあと、自分の体が何の支えをも失って落下しはじめるのを自覚した。
(おかあさま、ごめんなさい!)
 目をつむって頭を抱え、もはやなすすべもなく落下してゆく。――だが、井戸の底に叩きつけられるのを待つ時間が、意外なほどに長いのに気がついて、アイリスはまた目をあけた。
(あれ……?)
 たしかに彼女は落下していた。だが、その速度は非常に緩やかで、飛んでいるような錯覚すら覚える。
「無茶したらあかんよ」
 すぐ傍で、聞き覚えのある声がそう言った。
「奥様……?」
 振り返ると、エルフの奥方が、宙に浮かんだままあぐらをかいて、こちらを見ていた。
「心配するやないの。夜中に消えてしもたら」
 ゆっくりと落下していくアイリスにあわせるように、奥方も降りてゆく。
「これは……魔法、ですか?」
「そうや。落下を制御する呪文。ちょっと遅れとったら、あの世行きやった――て、まさかあんた、そのつもりやったんちゃうやろな?」
 奥方が訝るような目で凝視したので、アイリスは慌ててかぶりを振った。
「いいえ――あの、信じてもらえるかどうか、わかりませんけど」
 女の子の幽霊の話をすると、奥方は意外なほどにあっさり、それを信じてくれた。
「まあ、こういう場所やったら、そんなんが居よっても、おかしぃないわ」
 ふたりは井戸の底に着いた。
 アイリスはそこで、さっきまで真っ暗闇だった周囲の空間が、明るく照らし出されていることに気づいた。奥方の肩のあたりにふわふわと浮いている、奇妙な輝く球のようなものがその光源であるようだ。
 不思議そうな目で見つめるアイリスに、奥方が気づいて説明した。
「これは光の精霊――ウィル・オ・ウィスプや。ウィスプくんて呼んだって」
「ウィスプ……生き物なんですか?」
「精霊やて。知らん? シルフ、サラマンダー、ウンディーネ、ノーム。この物質界を支える、精霊界の住人や。うちは魔術師でもあり、精霊つかいでもあるのんよ。かの大賢者マナ・ライかて、うちには一目置いてくれたはったんやから」
「それが、どうして商人に?」
「そらあんた、あの宿六亭主と結婚してもうたからやんか」
「誰が宿六やねん。愛妻家やろ、ワシは」
 と、頭上から、その隊長当人の声が響いた。
 隊長は井戸の口から底に向けて、長いロープを垂らし、そこをおりてきていた。アイリスからもその表情がうかがえるぐらいの位置までおりた所で、隊長は壁を蹴ってロープを放し、ひょい、と跳んで、アイリスと奥方の前に危なげなく着地した。
「昔とった杵柄、ちゅうやっちゃな。ワシらは昔、冒険者をやっとってんで」
「冒険者……」
「そう。――町の便利屋さん、遺跡調査と怪物退治の専門家……」
「かたぎの世界のはみ出しもん、大人になりきれん現実逃避の夢想家集団、いっちょかみのトラブルメーカー」
「えらい言いようやな、おまえ、自分のことを」
「あんたのことえ」
「さよか」
「え、ええと、あの」
 アイリスは、放っておけばいつまでも続きそうな漫才を途中で遮った。
「――おふたりは、元・冒険者さんだったんですか?」
 奥方は頷いて言った。「二人だけやのうて、六人組でな――まあ、そんなことはどうでもええわ。とにかく、こういうところに潜るのは、うちら慣れとるさかい」
 言いながら、奥方は周囲の様子を見回した。
 円く周囲を囲む側壁。その一角に、不自然な窪みの跡があることに、奥方は気づいた。
「ここやろな」
 窪みのあたりに近寄って、壁を蹴飛ばすと、あっさりそれは崩れた。そしてその向こうに、人間がぎりぎり通れるくらいの横穴の入り口が現れた。
「たぶん、この奥に何かあるんや」
「幽霊さんは、ここにわたくしを連れてこようと……」
「行ってみる?」
 訊ねられて、アイリスは即座に頷いた。
「ここまで来てしまった以上、あとへは引けません」
「おーお、大した子やなあ。それこそ、冒険者になれるんと違うか?……よっしゃ、おっちゃんたちがついとる。安心しとき」
 隊長は、ばん、と右手で自分の胸を叩いて見せた。奥方は呆れたように首を横に振って、やりきれない表情でぼやいた。
「そういう台詞は、なああんた、アトレイやらビーツが言うたらカッコええけど、盗賊のあんたが言うても説得力無いで」
「盗賊とは人聞きの悪い。遺跡荒らしと呼んでくれ」
「同じやん、そんなん。――あーあ、うち、なんでこんなんにホレたんやろ……」
「そら若気の至り、ちゅうやつと違うか?」
「おのれが言うな、アホ!」
 奥方はげんこつを一つ隊長の頭頂部に食らわせてから、先頭を切って横穴に入った。隊長がその後ろにつき、最後にアイリスが続く。
 三人は、慎重に周囲をうかがいながら、奥へと向かった。

 横穴はしばらくまっすぐ続いて、十分ほど歩いたところで、開けた場所に出た。天井の高い、ちょっとした広間になっているようだ。
 入ったとたん、すえたような異臭が、アイリスの嗅覚を襲った。
「なんや、この臭い」
 奥方は衣の袖で鼻を押さえながら、ウィスプを飛び回らせて、あたりの様子をうかがった。
 異臭の正体はすぐにわかった。広間の壁際から中央まで、床の上のいたるところに、白骨化した人間の遺体が散乱しているのだ。
「気色わる。大虐殺か、集団自決か……なんかそんな感じやな」
 奥方は眉をひそめた。隊長のほうは腰をかがめ、傍にある白骨に近寄って、仔細に観察しながら言った。
「多分、隠し神殿が見つかったときに、追いつめられて殉教したんやろ」
 広間は、どうやら神殿の礼拝堂のようだった。広間の一角が高壇になっていて、その正面の壁際に、大きな神像を安置したトリプティク(観音開きの祭壇)がある。
「これは、マーファの神像やな」
 隊長が断定した。
 女神の像である。一般に五大神のうち女神とされるはマーファ一柱だけだ。加えて、麦の穂と盾を手にもっていれば、ほかのマイナーな宗派の女神ではなく、平和を愛する豊饒の神であることに、疑いの余地は無い。
 神像は、慈愛に満ちた表情で、祭壇の上から白骨の山を見下ろしていた。
 と、その祭壇付近に、蒼白く淡い光が浮かんだ。
「あの子――」
 光はすぐに、女の子の姿になった。アイリスが追いかけてきた、あの幽霊だった。
「あんたが見たっちゅう幽霊か?」
 アイリスは首肯した。そして足元の骨を踏まないように気をつけながら、幽霊に近寄ろうとした。
 幽霊はちらりとアイリスを一瞥してから、すい、と祭壇の一角まで移動し、そこに留まって、手招きした。
「何やろ……」
 怪しみながらも、アイリスたちは幽霊の留った位置に駆け寄った。
 幽霊の足元には、一体の小さな白骨があった。祭壇に寄り添うように倒れている。アイリスは即座に理解した。
「……もしかして、これ、あなたの体なのですか?」
 白骨と幽霊の姿を交互に見比べながら、アイリスは訊ねた。 幽霊は頷いて、自分の死体の右掌を指差した。
 そこには、ちいさなマーファの神像が握られていた。
 現在の状況は、握られていたようだった、というほうが正しい。手の指の骨が散らばる中に、その小さな銀色の像は、仰向けに転がっていた。
 アイリスは神像を拾い上げ、手にとって見た。
(マーファ……)
 あまりにも小さなその地母神像は、しかしこの幽霊になった少女の、ささやかな信仰の証であることにおいて、正面の祭壇に飾られている、大きなマーファの像となんら違いはない。むしろ、幽霊少女の執着は、その小さな神像のほうにあるようにさえ見えた。
 アイリスは、小さな銀の像を、そっと少女の遺体の前に立てた。
 そのときである。
 幽霊の口が動き、彼女のものと思われる声が聞こえた。小さく、低く、細く。しかし確かに、幽霊の声のようであった。

「話した……?」
 ここまでずっと沈黙を保っていた幽霊が、はじめて声を発したのだ。だが、その幽霊の話した言語は、アイリスの知らない体系に属しているもののようだった。
「古代語やな……」
 奥方はひとり頷きながらそう言って、アイリスにはわからない言葉で、幽霊になにごとか話し掛けた。
 幽霊は驚いたように、一瞬激しくその姿が乱れ、続いて、また小さな、呟くような声で、奥方の呼びかけに答えた。
「――シンゾウて? ああ、神像か。こっちのやつやね?」
 奥方は、白骨の前にアイリスが立てた銀の神像に目をやった。
「これの――裏やて?……お嬢ちゃん、ちょっとその神像の足の裏を調べてんか」
 アイリスは急いでその通りにした。
 神像の足の裏を見ると、そこには小さな引き出しが仕込まれているのがわかった。引き出しを開けると――そこには、白い綿のようなものが、ぎっしり詰まっていた。
「これは――たんぽぽの種やな」
 アイリスの手の中をのぞきこんで、奥方はもっともらしくそう断じた。
「たんぽぽ……ですね」
 もちろん、アイリスもたんぽぽの種ぐらい知ってはいたが、マーファの神像の裏からそれが見つかることに、多少の違和感を覚えた。
 それに、その種は見たところ、少しも古びてはいないようだった。
 五百年も前のものであれば、綿毛はしなび、それどころか、種全体が腐敗しているはずである。だが、神像からこぼれ出した綿毛は、たったいま茎から離れたばかりのように、ふわふわと宙を漂っていた。
「……保存の魔法がかかっとる。高位の神聖魔法や」
「神聖魔法……?」
「神官の使う法力のことや。おそらく、この隠し神殿におったマーファ神官がかけたんやろけど……でも、なんで『たんぽぽ』なんやろう」
 食糧になる穀物の種、というのであれば、まだわかるが、たんぽぽのようなありふれた雑草の種を保存して、何の役に立てようというのだろう。
 奥方は首をかしげながら、それについて幽霊に質問した。
 幽霊は、また古代語を呟いた。
 事情を聞いて、奥方は得心いったように何度も頷いて見せた。「なるほどな。ええと、順を追って説明するとやね――どうやら、この女の子、たんぽぽを見たことが無かったらしいわ」
「まさか。どこにでも生えているものじゃないですか」
 クロシェスの町中などでは、生えていない場所を見つける方が難しいぐらいだ。
 しかし奥方は首を横に振った。
「古代王国時代は、違うたのかもしらん。――それで、親切な人に頼んで、どっかからあの種を探してきてもろたんやて」
「へえ……」
「そやけど、種を植える前に、魔術師たちが押しかけてきて、神殿は破壊され、この部屋にとり残されたこの子らも、身を潜めたまま飢え死にして……で、たんぽぽの花を見られんかったんが心残りで、彼女の霊は迷うてしもたらしい」
「かわいそう――」
 痛ましげに、アイリスは目を伏せた。
「あなたは、これを知らせたかったのですね」
「まあ、五百年も前の話や。うちらにはどうしようもない。けど……どうやら、この子、あんたにその種を植えてほしいらしいで」
「わたくしに?」
 幽霊は頷いた。そしてまた、奥方に何かを言った。
「え?……何やわからん――あんたをお母ちゃんに逢わせてあげたんやから、て、言うてはるけど?」
 奥方はわけがわからない、という顔で、アイリスに向き直った。
 アイリスははっとして、あらためて幽霊の顔を見た。「まさか、あの夢――」
 幽霊はにっこりと微笑をかえした。
「夢、て?」奥方が訊ねた。
「さっき、お母様に逢う夢を見たのです」
 アイリスは正直にそう答えて、まじまじと、あどけない幽霊の表情をうかがった。
「――この子が、見せてくれたのかしら」
「さあ、どうやろな。こんな子供の幽霊に、そんな力があるとは思われへんけど……」
 しかしアイリスにはなぜか、この少女の言葉が真実であるように思われた。そうであってほしい、とさえ思える。
 いずれにせよ、そんな交換条件など持ち出されるまでもなく、アイリスの選択ははじめから決まっていた。
「この種を、地面に埋めればいいのね?」
 幽霊の正面で目線を合わせるようにかがみ、アイリスは確かめるように言った。
 奥方がそれを翻訳すると、幽霊はこくりと頷いた。
「そのぐらいのこと、お安い御用です。――お母様に逢わせてくれて、ありがとう」
 その言葉を聞くと、少女の霊は満足げな表情を浮かべた。そして次第に輪郭がぼやけ、空気にとけこむように形を失い、やがて見えなくなった。

 アイリスたちが地上に戻った頃には、すでに東の空が白みはじめていた。
 遺跡の周囲の光景は、相変わらずの荒地である。
(この種を――)
 彼女の手には、あの幽霊から預かった神像が握られている。
「約束は守らないと」
 幽霊少女の心残りが消え、現世への呪縛が解かれた以上、その約束は単に約束という以上の意味を持っていなかったが、だからといって、アイリスはその履行を先延べにしたり、反故にしたりできるような性質ではなかった。
 あるいは、それだからこそ、神像をアイリスに託した瞬間に、少女の迷いが断たれたのかもしれない。
 アイリスは腰をかがめ、指先で荒れ野の土をすこしだけ掘って、神像の中から、綿毛を一つつまみ出すと、そこに埋め、土を薄くかぶせた。
 その瞬間。
 アイリスの目の前に、突如、幻が広がった。
 地平線の向こうまで、どこまでも、どこまでも広がる、たんぽぽの花畑。
 荒れ野――この不毛の地に、見渡す限り、黄金色の花が、まるでじゅうたんを敷き詰めたように咲いている……
 その中心に、彼女は立っているのだ。確かに、立っている――井戸を下りるときに靴を脱いだきり、彼女は裸足だった。その足の裏には、まぎれもない土の感触があった。にもかかわらず、目の前で繰り広げられている光景は、あまりにも突拍子もないものだった。
(これは――)
 アイリスは呆然とした。
(夢……?)
 昨夜見たあの夢の中の感覚と、今感じている周囲の雰囲気とは、どこかしら重なる部分があった。
 頭の中に、直接語りかけてくるような、やさしい声を感じたのは、そのときである。
――アイリス。
「は、はい」
 アイリスは名を呼ばれて、おもわず姿勢をただし、口に出してそう答えた。慈愛に満ちた暖かな言葉であると同時に、崇高で偉大なものにたいする畏怖のようなものも感じたからである。母の言葉のようでもあり、そうでないようでもある。
 天の声、とでも言うべきか。
 その声は続いた。
――アイリス、あなたはその一粒の種である。
(わたくしが……この、種)
 アイリスは、たったいま種を埋めたばかりの土の上に目を落とした。
――いま、あなたが見ているのはその種の行方。
「種が……この幻視のように? それに、わたくしが種……どういう意味なのです?」
――そのこたえはすでに、あなたの心にある。種は花を咲かせ、あらたな種を抱き、やがて地に満ちるであろう。
 アイリスは、花畑の中に、一組の母と子が遊んでいる姿をみつけた。
 まばゆいばかりの金色の輝きの中で、明るい笑い声をあげて、走り、踊り、転がっている。それはアイリス自身と彼女の母親のようにも見えたし、あるいは、彼女自身の娘と、未来の自分の姿だったかもしれない。あるいは、孫娘――
(そうやって、『世界』が増え、受け継がれてゆく――続いてゆくもの)
 アイリスは慄然として、「こたえ」を声に出した。
「それが……命」
――然り。
 天の声は一層大きくなって、アイリスの頭の先からつま先までを貫く雷のように轟いた。
――あなたは命の真理を悟った。ゆえに、あなたの言葉は、あなたの身体がはぐくむより多くの命を、この世に産むようになるであろう。
(わたくしの、言葉が?)
 アイリスは、即座には天の声の示す意味をとりかねた。
――あなたが人の種であるのと同じく、あなたはわたしの言葉の種になる。
――アイリス、わたしの名を呼びなさい。
――さすればあなたは、言葉によって命を産む種となる。
(言葉によって……命を……まさか、あなたは)
――さあ、アイリス、声高く、わたしの名を呼びなさい。
 アイリスは、はっとして、自分の手の中に抱かれている、小さな神像に目を落とした。
「マーファよ」
 アイリスは神像に、囁くようにそう語りかけた。
 その言葉は、彼女が普段口にするのとは違う、ひどく象徴的で、短く、そして神聖なものとして放たれた。
 奇妙な浮遊感が襲った。足の裏にあった大地の感覚が薄れ、清浄で静寂な虚空の中に、一人で浮かんでいるような錯覚を覚えた。
 そしてまた彼女の頭の中に、穏やかな、荘厳な声が伝わってきた。
――然り。
 そのとたん――空を流れる雲の動きが、にわかにその速さを増した。目の前で黄色い花をつけていた無数のたんぽぽは、一斉に花を落とし、白い綿毛になった。
 凪ぐように緩やかだった風が、途端に一陣の疾風となって、その上を通り抜けてゆく……。
 花畑が波打った。
「――――!」
 何千、何万、何億というたんぽぽの種が、風に舞った。
 真っ白な綿毛が視界を埋め尽くす。空のはてまで――地のはてまで。ずっと。

……幻視は一瞬のうちの通り過ぎて、景色はふたたび、見渡す限りの不毛の地に戻った。
(命――)
 しばし惚けたように立ち尽くしていたアイリスは、がくんと膝を折って、その場にへたりこんだ。そしてさきほど埋めた種の上に、そっとその手をかざした。
(マーファの、お声が聞こえた)
 足音がして、奥方と隊長が背後から駆け寄ってくるのがわかった。
 アイリスは立ち上がって、振り向こうと顔を動かしたとき、はじめて自分の頬に涙が伝っているのを自覚した。
 あまりにも大きく、あまりにも畏れおおく、それでいて、あまりにも澄んだ、優しい存在に、彼女の魂は触れたのだ。こみ上げてくる、いわく言いがたい感情が、滂沱を呼びさました。
(マーファの……啓示)
 アイリスは、神像を両手で握り締めると、それをぐっと胸元に押し付けた。
 一滴の涙がこぼれ落ち、足元の土をわずかに潤した。

***

「そんなわけで」
 パジャマに着替え、ベッドの毛布に身を包んで、アイリスは話を締めにかかった。
 エレミアの夜はもう、かなり更けている。
「……それから、すぐにクロシェスに戻って、お父様にマーファ修道院に入る意志を伝えました」
 アイリスはそこでぺろりと舌を出した。
「その前に、さんざん叱られましたけどね、もちろん」
「へえ……」
 クスカは嘆息して、ペンを止め、アイリスに向き直った。話の内容は、クスカが当初予想していたよりは「他愛ない」ものではなかったし、アイリスの話の伝え方もわかりやすかった。だが、歌にするためには、ひとつ難点があった。
「その、助けてくれた交易商人の夫婦、名前は覚えてないの?」
 話の要点をメモしながら、クスカが悩んでいたのはその点だった。重要な登場人物の名前がないと、どうにも歌詞がしまらない。
 だがアイリスはかぶりを振った。
「残念ながら、お互いにあまり名前で呼び合わなかったものですから……それに、わたくしを町に送り届けたあと、すぐに北に向かっていってしまわれましたので」
「そうか……ううん、どうしよう」
 クスカは頭を抱えた。
「でも、今思えば」アイリスは、はたと思い当たった。
「言葉のアクセントは、マキさんと同じロマールあたりのものでしたわ。――マキさんのお知り合いに、心当たりの方、いらっしゃいません?」
 アイリスが振り返ってマキの方を見ると、彼女はなにやら表情をひくつかせながら、ぶつぶつ言っている。
「マキさん――」
「聞こえとる。――その人らが、お知り合いでないことを祈ってたんやけど……」
「?」
「まあええわ。ようわかった――なんにせよ、いろんな意味で興味深い話やったな」
 長く息をついたあとで、マキはいつもの顔に戻って、そしてアイリスの両肩に軽く手を置いた。
「今度お父ちゃんとこに戻ったら、しっかり親孝行したげや」
 そこでクスカは何かに気づいて、短く「あ」と声をもらしたが、マキがキッと横目で睨んだので、苦笑して肩をすくめるだけにとどめた。そして、羽根ペンをケースに仕舞いこんだ。

 アイリスは、ほかの二人が寝息をつきはじめたのを確認すると、そっと床を抜け出し、窓辺に立った。よろい戸を開けると、涼しい夜風が流れ込んでくる。
(……健康に悪い、って、マキさんはおっしゃるでしょうけど)
 街路に面した窓から、アイリスは半身を乗り出して、周囲をうかがった。
 すっかり寝静まったエレミアの街並は真っ暗だった。
 彼女は一旦、部屋の中に身を戻すと、自分の床机の上に置かれた小物皿から、大切なマーファの神像を探し当て、そのちいさな引き出しを開けた。
(大地母神の祝福を――)
 指先で、神像の中身をひとつつまみ出し、ひとこと祈りを捧げたあと、アイリスは窓の外にむけて、フッと息を吹いた。
 綿毛は夜風に揺れ、寝静まった町並みを通り過ぎ、やがて街路の石畳の隙間に落ちた。

(終わり)