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    Maid in MARS寄稿小説
      「火星の方程式」
 
 
 

ポディは火星のメイドさんだった。

ピンクのエプロン・ドレスにレースのカチューシャ、背中に結んだでっかいリボン。さらさらストレートの長い髪がチャームポイント。

どこからがどう見ても「メイドさん」という姿をしている、二十歳前後の健康な、平均よりもちょっとスタイルのいい女性としか思えないポディが、火星にいるのはなぜか。

無論、火星をテラフォーミングするためだ。

Terraforming。わかりやすく言うと、人間が住める環境を整える、ということ。

知っての通り、火星という星は、地球のすぐ外側を廻っている太陽系第四惑星で、特別な赤い色で天に輝いている。さまざまな要因から、「第二の地球」候補として、二十世紀初頭よりはじまった「宇宙開発」の行き着く先として検討されてきた。

しかし、火星に人が住むためには、さまざまな問題を解決する必要があった。

地球とは比較にならない量の宇宙放射線、地球と異なる大気組成と大気圧、そして有機物の存在が一切見込めない、枯れた土壌。などなど。

こうした問題点を計画的に解決し、徐々に人の住める環境を整えていくのが「テラフォーミング」だ。そして、それを実際に行うのが、ポディたちにほかならない。

――そう、ポディは人間ではない。

火星をテラフォーミングするために、ISCA(国際宇宙植民管理局)が総力をあげて開発したアンドロイド。

(火星駐留人工知能開拓者)

略してMAIDさん、なのである。


西暦二〇七三年。

NASAをはじめとする世界各国の宇宙開発担当機関、および有識者と一部民間企業からなる国際機関ISCAは、本格的な他惑星進出時代に先鞭をつける、驚くべき火星開発計画を、ついに発動させた。

MARIA計画。

その内容は、宇宙開発が各国政府主導だった時代には考えられない、画期的な、そして実効的なものだった。

要約すれば、

「民間の個人に、火星開発アンドロイドの購入、維持管理を委託。その代わり、各が火星開発に貢献した度合いに応じて、その管理者(以下「マスター」)に対し、火星の土地を分譲し、その居住権を保証する」

というものだ。

一機関が単独で行おうとすれば、莫大な資金と大規模な施設を必要とする火星開発だが、個人単位の参画と権利保障を認めることで、リスクを分散し、かつ予算規模を格段に低減できる、という計画である。 ISCAが目をつけたのは、日本の東京は外神田にある、秋葉原電気街から世界に広がった「秋葉系」、英語で言う所ところの「オタク」、ことに「メイド萌え」と呼ばれる人々であった。 ひとたびのめりこんだ対象には、湯水のごとく金銭を浪費することで知られる彼らをメイン・ターゲットとしてキャンペーンを展開すれば、すばやく資金が調達でき、また計画そのものを世にアピールするためにも、恰好の起爆剤になるだろう。

――それがMARIA計画の肝であった。

さよう、ポディたちが「メイドさん」の格好をしているのは、つまりそういうわけなのだ。


もし惑星ウォードンに軌道エレベータがあったら、マリリン・リー・クロスは放り出されなくてすんだだろうな、とポディは思いながら、パヴォニス山上空の静止軌道上で、深いため息をついた。

パヴォニスは、いわゆる「タルシス三山」のひとつで、火星の赤道直下にある。標高は二〇キロメートルにも達するが、その頂上のさらに上に、巨大静止衛星「マーリン」が虚空を漂っている。

「マーリン」の中ではポディと同じようなが、何人も、軌道エレベータ「ビーンストーク」の建設事業に直接的なかたちで従事していた。

「軌道エレベータ」とは、惑星の静止軌道と地表とを結ぶ長大な建造物のことである。

二十世紀なかば、ロシア(当時はソビエト連邦)の物理学者、ユーリ・アルツタノフがその構想を提唱し、イギリス生まれ(でアメリカ合衆国市民権を持ちスリランカ在住)の作家A・C・クラークによる「楽園の泉」と、アメリカ人作家チャールズ・シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」という、偶然にも同時期に上梓された二つの長編SF小説によって、広く世に知られるようになった。

静止軌道を重心とし、長さ一万七千キロ以上にもおよぶ、細長い静止衛星、というのがその正体だ。一万七千キロ、というのは、火星の静止軌道高度の長さであって、これに、遠心力と重力との釣り合いをとるための、カウンター・ウェイトとなる部分が加わるから、実際にはその倍近く、三万キロほどの長さがある。

むろん、地球に同様のものを建造しようとすれば、静止軌道高度はおよそ三万六千キロであるから、その全長はゆうに五万キロを超えるものになる。

南米ガラパゴス沖の海上から、天を貫くように屹立する地球港軌道エレベータ「クライマー」は、まさにその長さをもっている。人類史上最長の「宇宙のかけ橋」。

軌道エレベータの出現は、地表と低周回軌道(LEO)とのあいだの荷重のやりとりに革命をもたらした。

それまで、LEOに地球上からいちどきに打ち上げられた最大の荷重は、一九七三年にアメリカ合衆国が月ロケット・サターン五型を用いて打ち上げた、「スカイラブ」という一種の宇宙ステーションであり、これが九〇トンの質量をもっていた。化学燃料でLEOに持ち上げられた荷重の記録はそれいらい更新されていない。(船体に比して広いペイロードを持つスペースシャトルは、もっと大きな荷重を上げられそうな印象があるが、実際には三〇トンが限界だった。対してサターン五型のLEO打ち上げペイロード質量は一三〇トンにもなり、「スカイラブ」を打ち上げてなお余裕がある。)

そして、この記録はもはや二度と更新されないであろう。

実際に完成した軌道エレベータ「クライマー」が、一度の上昇によって軌道高度に持ち上げられる荷重の限界は、(サターン五型は別格として)化学燃料ロケットのそれとは桁が違った。そもそも、一度のエレベーション(上昇)で何機もの衛星を運び出せ、しかもロケットよりはるかに低いコストで、繰り返し運用が可能な軌道エレベータとでは、最初から勝負にならない。

すくなくとも二〇三〇年以降、化学燃料ロケットで打ち上げられた人工衛星は、インドの「ラーマ」プロジェクトによる三機と、台湾の「仙雲七号」くらいのもので、小型の実用衛星や極秘裏に打ち上げられた軍事衛星などを含めればもっと多いかもしれないが、それでも「クライマー」上から投入された衛星の数に比べれば微々たるものだ。

地球の上空を飛び交う衛星は、すべて「クライマー」を中心に整理されつつあった。

ポディがマリリン・リー・クロス――トム・ゴドウィンの傑作短編SF「冷たい方程式」に登場する、哀れなヒロインに思いを馳せたうしろには、そういう知識があった。

マリリンはたった一一〇ポンド(五〇キログラム弱)の質量を、貧弱な大気圏突入用宇宙機に付加させたために、船外に放擲されざるを得なかったのだが、軌道エレベータにとっては、その程度の質量増は鉄アレイの上に蝶がとまるようなものだ。

そして、マーク――ポディのマスターである十一歳の少年――の体重は、マリリン・リー・クロスより二〇ポンド以上軽かった。


NASA発のネットワーク・ニュースで、マークがMARIA計画とについて知ってから、金持ちの父親にせがんで買ってもらったに「ポドケイン」という名をつけるまで、一週間とかからなかった。

マークの父は、経営している会社が新しい事業に進出して成功し始めていたころで、財布のひもは緩みきっていたし、なによりも、三人目でようやく生まれた男の子であるマークに対し、甘やかしすぎるきらいが昔からあった。

は、彼女たちの本来の目的である火星開発に従事するため、いずれ「クライマー」から宇宙にあがって、火星に赴かなくてはならないが、それまではマスター、つまり「ご主人さま」となった人間とともに暮らし、行動を制御するアルゴリズムに適切な冗長性を与える期間がある。人間でいえば、(語弊があるかもしれないが)「情操教育」に相当するものだ。

さんを満載した火星行き宇宙船が出発するまでの半年以上、ポディとマークはともに暮らすことになったのだった。

マークは野心的な少年だった。

父親はフロリダでも有数の成金であったが、それを鼻にかけるでも、逆にコンプレックスを持つでもなく受け入れて、なおかつ、自分自身の野望を幼い頃から――今も十分に幼いが――抱き続けてきた。

すなわち。

「ぼくは、火星に立った最初の人間になる」

ということである。

マークの夢は、火星の赤い大地に自分の足が、人類としての第一歩を記すことであった。五歳のときに読んだ児童向けの伝記シリーズで、ニール・アームストロングのことを知って憧れて以来、彼の心はすっかり宇宙に囚われてしまっている。図書館通いやネット・サーフィンで得た宇宙や宇宙開発についての知識は、そのへんの大人以上であり、米国惑星協会や火星協会の少年会員にもなっている。

「あの酸化鉄の赤い砂の上に、ぼくの足跡をつけるんだ。もちろん、アームストロング船長のやつみたいに、永遠に残ったりはしないけど、でも、そうしたいんだよ。そうしなきゃいけない気がするんだ。アメリカ人として――いいや、人間として!」

ひととおりのたくらみをすっかり自分のに白状した後、マークは紅潮した顔でそう言った。

「なるほど」

ポディはため息をついて、じっと自分の主人の表情を見返し、翻意の兆候を見出そうとしたが、どうやらそれは無駄なようだった。

「……だから、わたしと一緒に火星に行きたい、とおっしゃるのですか、坊ちゃま」

「そうさ!――」

マークは即答した。

「それはISCAとの間に坊ちゃまが交わしなさった、MAID管理・保有に関する協約の、いくつかの事項に違反・抵触するものと考えられます。具体的に項目を挙げますと――」

「挙げなくていいよ。――そんなことは承知の上さ。それに、危険だってこともね。ぼくだって充分考えたんだよ。結論がこれさ」

マークはテーブルの上を指差した。

カウチに坐るマークと、立っているポディの間には、立派なつくりの木目調のテーブルが置かれていて、その上には一冊の大学ノートが乗っかっていた。

ノートの表紙にはただ「PROJECT」とだけ、マーカーで書いてある。ポディは先刻、その中味をすっかり解釈し終えていた。

そこに記されていたマークの「計画」とは、ポディを一種の宇宙服に改造し、MARIA計画の火星行き宇宙船に密航して火星に行こうというものであった。

一見ふつうのエプロンドレスやストッキングに見えるの衣装は、じつは宇宙空間や火星上での活動に必要なだけの、対放射線・宇宙塵防御能力や駆動熱の輻射効率を備えた特殊素材でできており、体内の機器、特に、すべての制御を司るプロセシング・ユニットまわりのシステムを保護している。

マークの計画では、彼が入り込めるだけのスペースをポディの体内に確保し、彼女と一緒に火星に行くことになっていた。

ポディがその実現可能性について計算したところ、五〇パーセント近くの確率で「可能」という結果が出た。そしてポディ自身が発見した要修正点を適正に処理すれば、九〇パーセントになる。

通常、宇宙開発計画の実行に必要とされる確実性は「テンナイン」、すなわち九九・九九九九九九九九パーセントである。そのことを考慮すれば、これはきわめて低い確度であり、内容も計画というにはあまりにも拙い。

しかし日常の感覚では、九〇パーセントの可能性で実現が見込めることなら、試してみたくなるのが人間というものだ。実際、人類としてはじめて衛星軌道に達したボストーク計画の成功率は、九割未満だったとも言われる。

専門家ですらそうなのだ。まして、冒険心旺盛な少年であればなおさらであった。

ポディは、無駄とは知りつつも、もう一度勧告することにした。

「……テラフォーミングが計画通り完了した場合、ポドケインのマスターであるマーク・フィッツジェラルド・ハンターは火星に居住する権利を得ます。わたしとしては、それまで、お待ちになることをおすすめしますが。現在の状態の火星を体感したいのであれば、Think-Syncでわたしの視点からの映像・音声コンテンツを視聴できますし」

Think-Syncとは、火星ではたらくとそのマスターの間に用意された、専用の惑星間通信回線である。の人工知能プログラムの、アルゴリズムデータ自体を地球に転送し、地球−火星間の通信時差を埋めることで、リアルタイムでの会話を可能にした活気的な惑星間通信インフラであった。

地球での養育期間をともに過ごしたとマスターの絆を持続させるために必要なシステムだ。

「そのためのVRオプションも用意されており、坊ちゃまの計画にかかる費用よりもはるかに安価で購入できますよ」

「それじゃ、意味がないんだよ、ポディ」

と、マークは舌を鳴らして首をかたげた。そしてテーブルの上からノートを取り上げ、表紙をめくって最初のページをポディに示した。

そこには鉛筆で、力強い文字でこう記されていた。

I don't wanna be as one of the Pilgrim-Fathers, but as Christopher Columbus.
(ぼくはピルグリム・ファザースのひとりではなく、クリストファー・コロンブスのようになりたい)

ポディは「わかっています」と言ってうなずいた。

「あなたが幼い野心家で、冒険心に富み、かつ聡明であることは知っています。しかし、宇宙を甘く見てはいけません。宇宙空間においては、人間はに比べ、きわめて脆弱な存在であるということを……」

「わかってるってば。計画は読んでくれたんだろう?」

「それについても、いくつか改善すべき点があるように思えます」

マークはそこでにやりと笑った。

「それさ。ぼくは、そいつをきみの口から聴きたかったんだ。専門家の意見をさ」

ああそうか、とポディは思った。彼女のマスターは、彼女に対して計画実行についての賛否や、その実現可能性を問うているわけではなかったのだ。

彼は、すっかりやることにきめているのだ。

誰が、なんと言って反対しようと、マークは火星に行く気なのである。アポロ一号や十三号、STS-51Lおよび107などの事例を持ち出してポディが強硬に反対しようものなら、彼女の目を盗んででも計画を遂行しようとするだろう。

ポディは「ため息をつく」という感情表現を、顔面にあるいくつかのアクチュエータに適切な指示を与えて実行した。

「坊ちゃまは、わたしのマスターです。あなたのために働くのがわたしの役目です」

「わかってるじゃないか」

「あなたの浅はかな計画をそのまま実行されでもしたら、わたしはマスターの生命を脅かす危機を看過したことになり、それはとして適切な行動とはいえません。それに、わたしの稼動が停止している間に、あちこち改造されて、スクラップにされたらたまりませんし」

「アシモフの三原則だね」マークは苦笑した。


「で、ポディの考えた、計画の要修正点というのは?」

マークは早速、具体的なレベルの話に切り替えた。

「はい。まず、機器類を最新式のものに交換することでダウンサイジングをはかり、居住スペースを確保する、という点です」

ポディは明瞭に回答した。

「たしかに我々を構成する機器類は、チップから各デバイスに至るまで、すべて一、二世代前のものが使用されています。これはコスト低減のためですが、坊ちゃまの財力ならば、これらをすべて最新のものにグレードアップできるでしょう。しかし、期待しておられるほどのダウンサイジングは望めません。真空管でできているわけではありませんから」

「真空管? なにそれ。昔の掃除機?」

「違います。――それから第二点。これはさらに重要なことですが、MARIA計画第一期における地球・火星間の旅程は約六ヶ月です。その間、あなたは何も飲まず食わずで旅をすることになりますが、耐えられますか?」

「きみの旅行かばんの中に、スニッカーズを山ほど詰め込んでおけば――」

「わたしに荷物なんてありませんよ。火星開拓事業に必要な物資は、あらかじめ無人往還機が先行して輸送しますし、本体を輸送する宇宙機も無人です。ISCAのウェブサイトを確認していただければ詳細がわかります」

「手ぶらの旅か――うん、その辺は考えなくちゃな。ポディなら、どうやってクリアする?」

「二、三の有効な対処法があります」

「きみが一番に推奨するやつ以外、全部挙げてくれ」

先手を取られて、ポディは内心で舌打ちした。彼女が候補の筆頭に挙げていた案は、「火星に行く計画そのものをやめること」だったからだ。

「では、申し上げます。ひとつは、マスターの身体組織を低温に保ち、仮死状態のまま代謝を押さえて旅程を乗り切る方法です」

「冷凍睡眠?」

「冷蔵です。極低温で冷凍した場合の蘇生技術は、まだ実用段階に入っていません。七〇パーセント以上の確率で、生命維持に必要な身体組織が損傷を受けるでしょう」

「冷蔵の方は?」

「NASAが外惑星へ有人探査機を送り込むために研究していた関連技術のノウハウを応用すれば、ほぼ百パーセント可能です」

「うーん、でも宇宙旅行をしてる間、眠っているのはつまらないなあ」

「覚醒状態のまま六ヶ月を過ごしますと、基礎代謝だけで軽くわたしの質量をオーバーします。クリアする方法はありますが」

「それを先に教えなよ」

「排泄物を再利用します」

「却下。冷蔵庫のやつで頼むよ――他には?」

「出発前の機能検査の裏をかく計略については、ほぼマスターのノートにあったとおりでよろしいかとおもいます。ただ、坊ちゃまが、その……わたしの中に入ることによる質量増については、正確な計算をお願いします」

「わかった。ようし、ポディ。これからぼくらは運命共同体だ。この計画のこと、他の誰にもばらすなよ」

「運命共同体――わたしの内蔵辞書には、より適切な表現があるのですが」

「なんだい?」

「共犯者というのです」

「そいつは素敵だ!」

マークは大声をあげて笑った。


アップグレード・パーツの大半は、ネット通販やマイアミの大きな電気店で購入できたが、ポディの指摘したとおり、それによって確保された「搭乗スペース」は、いくらマークのなりが小さいといっても、窮屈なものだった。

「宇宙服は、JAXAが開発したスキン・スーツを採用することで、大幅に容積を低減することが可能です」

「スキン・スーツ?」

「気密服ではなく、身体のラインにぴったりあわせた特殊繊維の宇宙服です。日本のSF作家ホースケ・ノジリが提案したもので、操作性もよく着脱も容易です」

ポディはブラウザをすばやく操作し、その宇宙服のデザインと諸元が掲載されているウェブページを表示した。

「うへえ、パワーレンジャーみたいだね。こんなので大丈夫なの?」

「輻射およびデブリ対策の面で、船外作業服としては若干のリスクを抱えていますが、私の中にいる限りはまったく問題ありません。繊維の緊縮によって一気圧相当の圧迫を身体表面に与える構造で、装着前の減圧も不要です。完全オーダーメイドなため、一着あたりの価格は相当なものになりますが」

「……ふうん」

マークは、自分が着ることになる宇宙服の、データ上の性能をいちいち確認しながら、すこし不満げに呟いた。

「NASAはどうしてこういうのをつくれなかったんだろう。日本人に先を越されるなんて、ちょっと悔しいな」

「おそらく、文化的な素地の差による発想のちがいです。アメリカ人やロシア人は、鎧をまとうイメージで気密式宇宙服を開発しましたが、日本人は皮膚を強化する、という着想でスキンスーツを開発したのでしょう。地球の環境を持って行くのではなく、自分を宇宙の環境に合わせて変えてゆく。自己という概念に執着する西洋人には生まれにくい発想ですが、ブシドーが根付いている日本人には容易なのかもしれません。騎士とサムライ、ムスタングとゼロファイター、ロボテクスとサイバネティクスのちがいです」

「パワード・スーツにするか、サイボーグにするか、か。ポール・バーホーベンは日本かぶれだったのかな――ううん、それでもまだ、スペースが足りないや。あと一・四立方フィート!」

「現状では不可能です。ポドケインは計画の断念を提案します」

「駄目だよ。――不足分に近い容積のユニットをリストアップ」

「諒解しました」

ポディは画面上に、彼女自身の「臓器」の質量と容積を示すデータのリストを表示し、容積の項目が大きい順に並べ替えた。

「大きいのはやっぱり駆動系だなあ。それに――電源まわり」

「アクチュエータの本体および接続ケーブル、ジャケット等は、撤去もしくは移動すると、深刻な機能不全を招来しますので推奨いたしかねます。ただ、アクチュエータのAMS(人口筋繊維)部位に関しては、柔軟なシリコン・コンポジット樹脂製ですから、容積に関してはいくばくかの冗長性があります。また、脚部および肩部アクチュエータの、スタビライザ・マウントの位置をそれぞれ、外側に〇・三九三七インチずらすことで、正味でおよそ二・五立方インチの容積を得られますが」

「スズメの涙だ。……輻射放熱と放射線防御のまわりは残さないといけないな」

「坊ちゃまの生命維持にかかわる装置も必要です。――電源まわりに関しては、予備電源をMEPB-08系のものに交換し、胸部マウントそのものをもう1ランク上げることで、四〇立方インチ相当を確保できそうですね」

「おっぱいを大きくするんだね。スタイルを考慮すると、腰回りも大きい方がいいかな?――この、『腰部生体交感インターフェイス』ってのは?」

「お答えできません。PG12コードに抵触します」

「――ああ、なるほど。じゃあ、この系統は撤去しても問題ないね」

「はい」

ここまでのアイディアにしたがってパッケージングした、ポディの「改造後」の立体設計図が端末の画面に表示されると、マークは短く、下手な口笛を吹いた。

「身長六フィート! スーパーモデルみたいになったね。これで……二四〇か。あと一・二!」

「これ以上の空間を確保するには、の構造に対する根本的な仕様改変が必要になります。――再度、計画の断念を提案」

「だーめだってば。ここまで来たら、最後まで付き合ってもらうよ」

「……しかし」

「まあ、見てな。ぼくだって、いろいろ考えてるんだ」


その翌日。

学校から帰宅したマークを、いつものようにポディは出迎えた。

「おかえりなさいませ、坊ちゃま。端末にメールが十三件届いています。それから、大旦那様から電話がありました」

「パパから? 晩くなるって?」

「はい。泊りがけになるそうです大奥様もご一緒で」

マークはにやりとした。

「そいつは好都合」

徹夜で計画を煮詰めることが出来そうだ。

「晩御飯は何になさいます?」

「カップヌードルでいいよ」

「いけません。――栄養のあるものを摂取してください。さもないと、火星までの旅程における生命維持を保証できかねます」

「……しかたないな」

「そういえば、ISCAが契約者向けに、新サービスを検討しているようです」

マークの眼がきらりと光った。

「ひょっとして、バックパックの増設?」

「……なぜご存知なんですか?」

不審そうな表情で、ポディはマークを見返した。

「ぼくのアイディアだから。――昨日、ISCAサイトの契約者サービス・ボードに書き込んだんだ。『ぼくのMAIDに、大事にしているサボテンの鉢植えと、MLBカードを火星に持っていって欲しいんですが、荷物を入れるところがありません。リュックを持たせていいですか』ってね。いかにも成金のドラ息子ですよって感じの、できるだけバカっぽそうな口調でさ」

「……考えている、と仰ったのはそのことですか」

「で? どのくらいの容積を確保できそうなの?」

「ISCAで検討しているのが、いま坊ちゃまが言ったとおりのものだとすると、およそ一・三立方フィート程度の固定型バックパックが予想されます。生命維持装置や電源の一部をそこにマウントすれば、坊ちゃまの搭乗スペースは十分なものになるでしょう」

マークは興奮した顔でうなずいた。

「ようし、第一段階クリアだ!」


ほかにも解決すべき問題は数多くあったが、マークの悪知恵はそのことごとくに的確な対処を与えた。神算鬼謀というべきであろう。ポディはなんとかして彼のアイディアの不可能性を証明しようと躍起になるのだが、それはかえって、少年のアイディアの実現性を高めるためのアドバイスになるばかりであった。

いつしかポディのプロセッサは、この計画の実現性について、九八パーセント超という値をはじき出すようになった。

ポディ自身の人格部分からして、史上初の有人火星ミッションを成功させたいという欲求が、MARIA計画の根幹を揺るがす犯罪計画に加担している、という罪悪感を上回りつつあった。

父親に、誕生日プレゼントという名目で買ってもらった日本製のスキン・スーツは、苦労して採寸した甲斐あって、マークの身体にぴったり似合った。

ヘルメットをかぶって、首周りのファスナーを閉じる。

「……三分二〇秒。もうすこしですね」

「だいぶ慣れてきたけど、でも三分ってシビアじゃないかな」

「それを着た後、気密箇所を再チェックし、わたしの体内に潜り込んで休眠装置を起動する時間がいることをお忘れなく。現行の計画を実現するためには最低で五分、確実に搭乗するためには三分以内で着替えてください。無理なら――」

「計画の断念を提案します、だろ?」

「そのとおりです」

マークは肩をすくめた。

「やるよ。なんとかするさ。予備減圧が必要ないだけましさ」

ISCAを騙して作らせた例のバックパックも、およそ二人が予想したとおりのもので、マークは早速それを購入した。

「へえ、予想より、すこし大きめだね」

マークが言うと、ポディは「はい」とうなずいて、

「私が調べたところによると、坊ちゃまが例の要望を書き込んだ直後、ほとんど同内容の要望を、十歳のロシア人が書き込んでいます。飼っていたネコが死んだので火星に埋葬したい、というものでした。その結果、容積が当初予測値より三十三パーセント上昇しています」

と説明した。

「なるほど。――そのロシア人の少年に感謝だ。ネコにも」

「女の子のようでしたよ」

「あとでラブレターを送っとこう」

「了解。相手も英語が読めるといいですね――いずれにせよ、これでかなり余裕が出来ました。生命維持装置、電源、非常用食糧と水、簡易ヒーター。それから、副系統のシステム周りも、一部バックパックにまわしましょう」

マークはクラスで一番のちびすけだったが、その小さな身体ひとつを宇宙にもっていくのにも、大がかりな仕掛が必要になる。呼吸、代謝、食事と排泄。本来、地球上で生活することを前提として進化したこれらの生理は、宇宙空間では重荷になるのだ。

MARIA計画でを用いる利点は、そういった面の配慮が不要になるという点であった。彼女たちは、外見こそ人間そっくりのアンドロイドであるが、本来の目的、つまり火星のテラフォーミング事業のために、高度にカスタマイズされているのである。その意味では、ガガーリンやアームストロングよりも、ルノホートやマーズ・パスファインダーの末裔というべきであろう。

「エコノミークラス症候群にならないか心配だったけど、これでビジネスクラスぐらいにはなるかな」

「遷移軌道に乗った後は、月に一度、外に出してさし上げますよ。しっかり運動なさらないと、火星の重力で潰れてしまいますから」

計画を発動して以来、マークはポディの指示に根気よくしたがって、身体を鍛え始めた。運動はどちらかと言えば苦手な方だったが、柔軟で俊敏な身体も、いわゆる「優れた資質(ライトスタッフ)」のひとつである。

幸いにしてマークは、ジャンクフードばかり食べているくせに肥満の兆候は見えず、また、パソコンの画面ばかり眺めているくせに、視力もさほど弱ってはいなかった。訓練の量に正比例して、マークの運動能力は上昇していった。付け焼刃ながら、無重力訓練も、自宅のプールで行った。

マークが命を預けることになる低温休眠装置は、ハンドメイドするしかない。要は生命維持装置つきの寝袋のようなものだが、郊外のホームセンターでは取り扱っていない。アメリカ航空宇宙局の技術の粋をあつめたシステムなのである。

「専門の業者に発注してつくってもらう手もありますが、宇宙服の件と重ねられると、そのスジから足がつく可能性があります」

「足がつく、か。ポディもだんだん、悪役らしくなってきたじゃないか」

「口が滑りました。自分でもショックです。――ともかく、実行前に計画が露顕しないように、フェイルセーフに気を配るべきです。リスクを分散しましょう」

ポディが提案したのは、休眠装置を三百いくつかのユニットに分割し、何に使用するのかをわからなくした上で、それぞれ異なる業者に製造を委託、しかるのちにマークとポディが自分でそれらを組み立てる、というものだった。

「マシン・スクリューとアーク溶接機の取り扱いには、慣れておいてください。緊急時には必要になるかもしれませんから」

「緊急時って?」

「デブリや宇宙塵による輸送機体外傷、および宇宙機それ自体の機能不全によるトラブルなどが、低い確率ながら予想されます」

「オーケイ、ポディ。――じゃあ設計に入ろう」

この時点では、すべてが順調に進んでいるように思えた。


出発の日がきた。

米国惑星協会の少年会員のうち、希望者はガラパゴス沖の軌道塔基部に招待されていて、マークはもちろん希望を出してあった。

一月に及ぶ機能検査を終えたポディは、施設職員用トイレで、彼女のマスターと再会した。

「いよいよだね!」

マークの顔は紅潮していた。

「もう、あとには引けないよ」

ヘルメットのファスナーが締まっていることを厳重に確認し終えたマークは、ポディのバックパックから、ダミーで入れておいたサボテンと野球カードを引っ張り出した。

「……なんか、きついな」

「きつい、と仰いますと?」

「スーツを着てると動きづらい。ちょっとだけだけど」

ポディは首をかしげ、わずかに表情を曇らせた。

「……坊ちゃま、そこで『気をつけ』の姿勢で立っていただけますか?」

「閲兵式かい?」

マークは笑いながら、ポディの指示に従った。

ポディはしばらく、宇宙服を着たマークの頭頂から靴のそこまで眺めおろしてういたが、やがて沈痛な声で言った。

「坊ちゃま、計画の中止を提案します」

「……何の冗談だい、ポディ」

マークは笑ったが、ポディは笑わなかった。

「坊ちゃま自身の容積が、計画当初より二四立方インチ増加しています――AMSの伸縮を調整しても、一・三立方インチのオーバーです」

マークは絶句した。

宇宙に行くための健康的な生活が、発育期にある少年を一回り成長させていたのである。そのことが皮肉にも、結果として彼の宇宙旅行を断念させようとしていた。

わずか一・三立方インチ。

眼の前が真っ暗になるような感覚に襲われる。


「ここまできて、ぼくのゲンコツより小さいスペースのために、広い宇宙をあきらめなくちゃならないっての? ジョークにしちゃ、気が利いてないよ」

「聞き分けてください。宇宙ではわずかな誤算が生死に直結するのです。このまま計画を続行することは推奨できません」

「でも……」

「やりたいことと、今現在可能なことの違いを判断できる能力も『優れた資質』の一つですよ」

「……ポディ、きみは知ってて教えなかったんだな」

マークは俯き加減の顔から、背の高いを睨みあげた。

「ぼくを火星に行かせたくなくて、わかっているのに教えなかったんだろ!」

「そんな……」

「きっとそうだ! ぼくを騙したんだ」

少年は、怒りと悔しさの行き場を失って、あげく、それは目の前のポディに向けられた。

「ロボットのくせに!」

マークは、眼に涙をためて、小さな拳をポディに何度もたたきつけた。いつもの、冷静で知恵の回る、落ち着き払った少年は、もはやそこにはいなかった。

「ロボットのくせに! ロボットのくせに!……」

ポディは黙って、少年の罵倒を受け入れた。やがて、殴る力は次第に弱くなっていった。罵倒の言葉はいつしか嗚咽に変わっている。

ポディは身をかがめ、そっとマークを抱きしめた。

「すこしだけ、待っていてください」

ポディは小さな声で、囁くように言い聞かせた。

「坊ちゃまの仰るとおり、わたしはロボットです。人間の姿を真似て作られた機械です。そして――人間の心を真似てつくられたヒューリスティックAIアルゴリズムでもあるのです」

「ポディ――」

「ポドケインは、初めてあなたの企みを聞いたとき、とても出来そうにもない、と思いました。すべてのデータがそれを示していました。でも、坊ちゃま、あなたとともに、計画を進めていくうちに、不思議なことに、なんとか出来そうな気がしてきたのです。そして――マーク・フィッツジェラルド・ハンター、わたしのかけがえのないご主人様と一緒に火星に行けることを、わたしはとても楽しみにしておりました」

「ポディ、ぼくは……」

「わたしは、いまとても残念な気持です」

「うん……ごめん」

少年は落ち着きを取り戻したようだった。ポディは両手をマークの肩の上に乗せて、もういちど、正面から彼と向き合った。

「わたしが、あなたの代わりに火星に行ってきます。――坊ちゃまの代わりに、火星の赤い土を踏んで、薄い大気層の向うに二つの月を見上げてさしあげますから」

ポディに涙腺に相当する部品はない。ロボットは涙を流さない。だがマークには、彼女が泣いているように見えた。いや、たしかに彼女が泣いているということがわかった。

マークは、彼のの腕にそっと手を添えた。

彼女とともに、秘密の計画をおしすすめていた日々が、急激にセピアの色合いを帯びた、懐かしい思い出へと変わっていくのを、少年は自覚した。ポディはロボットには違いない。だが、それが何だというのだ。

「ポディ。きみはいつだって、ぼくの味方だったね。心強いアドバイザーで、厳しいトレーナーで、なにより、やさしいメイドさんだった。――ありがとう」

「わたしが火星に着いたら、すぐに連絡します」

「約束だよ。Think-Syncなら、いつもどおり会話が――」

そこで、マークはふいに言葉を止めた。

「Think-Sync……」

マークは顔をあげ、ポディに尋ねた。

「ポディ、Think-Syncのコネクタ・デバイスの容積は?」

「およそ三立方インチです――あ!」

ポディも気がついたようだった。二人の表情は、ほとんど同時に、満面の笑顔に変わった。セピアの未来図に、また色彩が蘇る。

そう。Think-Syncは必要ないのだ。

二人は一緒に、火星に行くのだから。


……そして今。長い旅路を終えて、ポディの眼下には赤い星の地表が見えている。静止軌道宇宙機「マーリン」は、今、火星の夜の側にある。

イニシャル・ビーンストーク――軌道エレベータ「ビーンストーク」建造のガイドとなる、カーボンナノチューブ・エポキシ樹脂コンポジット素材のテープ――の下端がパヴォニスの山頂にたどりつくのを見とどけたポディは、ともに作業を行っていたほかのたちとともに、喜びを分かち合った。

作業開始から一ヶ月が経とうとしている頃だ。地球の軌道エレベータ「クライマー」がこの段階に達するまでに数年を要したことを考えると、たちの能力は驚異的なものといえた。

「よし、これで一段落ね」

ケイが言った。

彼女は「ビーンストーク」建造に携わっている何十体と言うたちのうち、ポディを含む五人をまとめる班長だった。

マークを搭乗させるための改造によって、ポディの外見はかなり長身の、ボリュームのあるスタイルになっていたが、ケイもそれに負けず劣らずのダイナマイト・バディである。MAID主要購買層の趣味傾向として、子供のようなスタイルのが多数派を占める中で、ポディとケイはかなり目立つ存在だった。

何かおかしな動きをすれば、いやでも目にとまる。

ポディが火星に到着してからひと月以上もマークを覚醒させられないでいるのは、そういう状況からだった。

(でも、そろそろ覚醒させなくては、坊ちゃまの生命に危険が及ぶ)

ポディはそう判断したが、「マーリン」の中で覚醒させるのはかなり危険だ。ことが発覚すれば、火星に降りる前に送還されてしまうかも知れない。

「……ポディ、クラーク振動のほうは、うまくいってる?」

「はい。問題なく調律されています」

「つぎはスパイダーのテストね」

スパイダーとは、荷重を載せてエレベータを昇降する部分のことを指す。現段階で設置されているのは、MAID数名の昇降がかろうじて可能な程度の仮設のものであったが、いずれは地球の「クライマー」と同レベルの低軌道・静止軌道搬送能力を持つようになる予定だった。
「……挙動のデータも取らなくてはならないから、何人かで火星に降りてみましょうか。のなかで、火星に降りてないのは、あたしたちだけですものね」
ケイが言うと、共に不遇をかこってきた「ビーンストーク」建造メンバーたちはうなずきあった。

「ケイ」

話の流れが途切れないうちに、ポディは手を挙げた。

「私に行かせてください」

「あら、いつになく積極的だこと」

ケイは微笑して、何かを確かめるように、ポディの顔をじっと見つめた。ポディは表情を変えずにそれを受け止め、一度だけまばたきをする。

「……そうね。そのうちみんなで降りることになると思うけど、まず、あたしとポディで先行偵察しましょうか」

「では、司令部に降下の許可を取っておきます」

かくしてポディは、待ちに待った、火星地表へ降下するチャンスを得た。

一万七千キロ。火星に到着したあとの主観的移動距離としては最長だが、地表面の一転に対してほぼ垂直に降りていくので、「移動した」という感覚は薄い。

パヴォニス地上基地の建設予定地は、暁闇の中にあって、火星の大地はその鮮やかな色を失っていた。

「いい頃合ね」ケイが言った。ポディは首をかしげた。

「意味がわかりません、ケイ」

「あら、そう思わない?――夜明け前の暗闇。あと一時間ほどで、きっとすばらしい景色が見られるわ」

「なるほど」

ポディは微笑した。火星の夜明けは美しい。先に地表に降りているたちから、さんざん聞かされていることだった。

「坊ちゃまにお見せしたいです」

「あなたのマスター?……マーク・F・ハンター氏ね」

「よく覚えてますね」

「そのリュックサックのなかには、サボテンと野球カードが入ってるんでしょ?」

「……なるほど」

あの書き込みのことを知っているらしい。と、そこでポディは、自分のパーソナルデータベースに記録されたケイに関するデータの中に、見覚えのある文字列を見つけた。

「ケイのバックパックの中には、ロシアネコの遺骸が入っているのですね」

ポディは言った。バックパックの容積を増やしてくれたあのロシア人の少女が、ケイのマスターだったのだ。

「あら、おぼえてた?」

ケイはくすっと笑って、意味ありげに視線を送った。

「でも、ふたを開けてみるまで何が入っているのかわからないのが、シュレーディンガーの箱よね――」

「え?」

ポディははっとして顔をあげ、ケイの横顔を見直した。

何もかも知っている、というような表情にも見える。まさか、とは思うが、しかし――そこでポディは、ひとつの可能性に思い至った。

ふたを開けてみるまで、何が入っているのかわからない。

(もし、そうだとすれば……)

だが今のところポディには、その予測を確かめるすべはなかった。

「……さ、ついたわ。お互い、ご主人様の願いをかなえる時がきたってとこね」

「スパイダー」から一歩、未開拓の火星の砂の上へと踏み出す。その瞬間、なにやら言い知れぬ興奮が、ポディの感情回路を刺激した。

(坊ちゃまの方が正しかった――)

高峰の頂、新大陸、極点、それに月面――人類は、自らの有機生命体としての活動限界を試すごとく、さまざまな極限の領域に挑戦してきた。

「もし挑戦することをやめたら」

と、かつてポディの若すぎるマスターは言った。

「人間はただの、性能の悪いアンドロイドと変わらないものになっちゃうよ。そりゃ、ただ火星に生活権を広げたいだけなら、テラフォーミングのあとに移民するのがベストだと思うけど……でも、人間が宇宙に行くことの意味は、それだけじゃないような気がする」

眼の前に広がる火星の荒野。マークが挑みたかったのは、触れたかったのはこれだったのだ。

ポディはいてもたってもいられず、駆け足になって飛び出した。そして、そばにケイがいることも気にせず、彼女の胴体の中で昏睡しているマークを覚醒させた。

『ポディ……?』

専用の体内通信機を通して、マークが寝ぼけた声で呼びかけた。『おはようございます、坊ちゃま。つきましたよ、火星です』

『ホント?』

『もうすぐ夜が明けます』

パヴォニスの山頂から東の空を見上げる。地平線はすでに白み始めていた。

「ポディ!」

追いついてきたケイが隣にかけ寄って声をかけた。

「びっくりするじゃない。急に走って」

「ごめんなさい。――ところでケイ。ひとつ訊きたいことがあります」

ポディはケイの表情をうかがいながら、恐る恐る訊ねた。

「なに?」

「さっき話した、あなたの荷物ことです」

「ああ、ネコのこと?」

「ひょっとしてネコではなく、『カモメ』が一羽入っているのじゃなくて?」

するとケイは一瞬、さも意外そうな表情でポディを見返し、その後すぐに破顔して、けたたましい笑い声をたてた。

「ヤー・チャーィカ!……ご明察。それじゃ、あなたの方もやっぱり、クドリャーフカを連れてきてるのね?」

「それはあんまりな言われようです」

ポディは表情をしかめながら、おもむろに自分のメイド服をはだけさせた。ケイの方も、心得たように同じ動作をする。

『坊ちゃま』

ポディはマークに告げた。

『聞こえてたよ。My life as a dogか』

『機嫌を損ねられましたか?――とにかく、隣にいるらしいチャーィカと競争になりました。恨みっこ無しですよ』

『うーん、どうせなら一緒にどう? って伝えてくれない』

ポディはうなずいて、ケイにマークの言葉をそのまま告げた。

「百年前のことは水に流しましょう、ですってよ」

ケイは答えた。


朝日が昇り始めた。

地球に比べてはるかに弱々しい陽光が、二本の長い影をつくっていた。影はやがて四本に増えた。

フロリダの少年マーク・フィッツジェラルド・ハンターは、名も知らないロシア人の少女と、まったく同時に火星の大地に降り立った。

――人類が火星の地表に記した、最初の足跡である。


ぱちぱちぱちぱち……

試写室に天井の明かりが点り、まばらな、というか、きっかり一人分相当の拍手が鳴り響いた。

スクリーンにはエンドロールが続いていて、CG製作に携わった人名が細かい字で長々と連なっている。BGMは二曲目に切りかわっていた。

「いやあ、よかったねえ。さすがジャパニメーション。ハリウッド製と違って、繊細な表情や、動きのデフォルメが洗練されてるよ。色使いもスタイリッシュだ。――そう思わないか、美也子」

拍手をしていた軽薄そうな印象の男は、隣の席に坐っていた穏やかな表情の女性――美也子と言う名らしい――に同意を求めた。

「ま、帰還ミッションはどうすんだよ、とか、爪伸びるぞとか、細かいことは言いっこなしでさ。なんてか、こう、宇宙への人類の夢を……」

「なんだかねえ」

美也子は呆れたように、白い目で男のほうを見て、深いため息をついた。

「あのマークって子、昔の貴方みたいよ、ジョン」

「僕だって、あそこまで無謀じゃなかったさ」

ジョン、と呼ばれた男は肩をすくめた。

「どうだか」美也子は苦笑した。

「――まあ、確かにいい映画だとは思うわ。けど、実際のMARIA計画のPR用としては、ちょっと不穏当な内容なんじゃないかしら?」

「犯罪を教唆しているって?――いやあ。かえってハネッ返りのロケットボーイズ&ガールズたちに、ISCAはこの程度の企みなら予想してるぞ、という牽制になるとおもうよ。NASAはたしかに低温睡眠装置を開発してるけど、その詳しい諸元を一般公開したりはしないしね。機密事項だから」

「たしかにJAXAも、まだ一着しか試作品のないスキンスーツを、子どもに売ったりしないけど……」

「それに、だ。もしこの映画を見て同じことをやろうと思ったら、もっと周到になる必要があるし、運も財力もいる。現実の宇宙開発は、SFアニメほど甘いもんじゃない」

ジョンは一瞬だけ真顔になったが、すぐにまた、屈託のない笑顔に戻った。

「まあ、アレだ。逆に、それでもなおISCAの目をくぐってと一緒に火星に行ける奴がいたとしたら、それはそれで『優れた資質』の持ち主なんじゃないか?」

「また、いいかげんなことを……」

反駁しかけた美也子をよそに、ジョンは席を立った。

「さあて。いい映画を見て、やる気になったところで、仕事に戻る、と。――フム、ISCAスタッフのメンタルケアにも使えそうだな」

「貴方専用でね」

ジョンに続いて席を立った美也子が、また溜息まじりにまぜっかえした。

……二人が試写室を出たあとも、エンドロールは続いていた。監督の名前が出るひとつ前の順番で「スペシャル・サンクス」として、

 ISCA(国際宇宙植民管理局)
 MARIA計画主任・ジョン河田(NASA)
 MARIA計画通信設備担当・讃岐美也子(JAXA)
というテロップが出るのを、本人たちはついに見ずじまいだった。

(END)